Tuesday, June 13, 2017

マンチェスター・バイ・ザ・シー(Manchester by the Sea) 2016


画像:https://fourthreefilm.com/2017/02/manchester-by-the-sea/



テレパシーのように、ほんの一言ですべてが相手に通じた瞬間の嬉しい驚きとか、ささやかなおかしみがあとを引き、何年たっても思い出し笑いをしてしまうような失敗談というのは、多くの人が持っている記憶ではないかと思う。でも、その嬉しさやおかしみを、自分が感じるままに人に伝えるのは至難の技だ。
その記憶の部分はせいぜい数分の、一瞬のものだけれど、それを温かく、おかしく感じるのは長く複雑な経緯や背景があるからで、その前段ごと共有できなければ、同じ気持ちを感じてはもらえないからだ。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は、優れた脚本、俳優、映像で、2時間かけて淡々と丁寧に物語を積み上げ、最後の場面で主人公リーやパトリックが感じた親しくもささやかな温かみを、観客も同じ温度で静かに共有できた気がする、そんな映画だった。

ボストンでアパートの住み込み管理人(というか簡単な修繕や掃除を請け負う便利屋)をしているリーは、兄の急死によって10年ぶりに故郷マンチェスター・バイ・ザ・シーに帰る。リーには、自分の不注意で起こした火災によって、かわいい盛りの幼いわが子3人を死なせてしまうという、取り返しのつかない重い過去がある。彼は家を失い妻と別れ、職を辞して街を逃げ出したのだ。

リーは兄の遺言によって遺児で高校生のパトリックの後見人に指名されるが、故郷に帰る気は無い。厳寒の季節で土が硬く、兄の埋葬のための穴を掘れる季節になるまでとどまることになるが、故郷でパトリックと対峙するうち、リーの気持ちもまた、凍土のように硬く人を寄せつけない状態から、だんだんと緩み、柔らかくなっていく。

10年前。海のそばの故郷で、美しい家と家族と気のおけない多くの友人に囲まれていた彼が、その全てを失うことになる事件は、発端はあまりにも些細な不注意で、言い訳のしようもないほど自分ひとりの失敗で、なのに結果はあまりにも重大で悲惨だ。それ以来、「死ねないから生きている」という風情のリー。その彼が兄まで失って故郷に帰ったのだから、重苦しい話になっても仕方がない。

でも、そんな背景を持ちながら、この作品には暗いどころか思わずくすくす笑ってしまうシーンがたくさん登場する。
それも、笑わせるための「ネタ」が仕込まれているわけではない、ささいなタイミングの行き違い、感覚のすれ違いが生む、あの日常生活を共有する親しい者だけがわかる「説明の難しいくすくす笑い」が。

例えば、兄の死後パトリックを学校に迎えにいき、病院の死体安置所に置かれた父の遺体に対面するか、見ずに家に帰るかと車内で尋ねる場面。パトリックは躊躇し、黙り込むが、意を決したように"I go"と言う。次の瞬間パトリックはドアを開け、リーはアクセルを踏み込み、お互いにすぐ止めて「なんだよ!」と怒鳴りあう。パトリックは見に行くというつもりでI goと言い、リーはやめて家に帰る、と受け止めたのだけれど、この取り違えの間(ま)が見事で、あああるねこういうこと、と笑いが漏れる。

もっとも悲惨な火災事故後の場面でも、酸素マスクをつけストレッチャーに乗せられて救急車に運び込まれる妻は、もう一瞬でも早く夫リーのそばを離れたいのに、キャスターがなんども車の入り口に引っかかり、おろおろと無言で寄り添うリーを振り払えないまま気まずい時間が続く。これも、わざとやっているのかと思うほど手際の悪い救急隊員に、思わず笑ってしまう。

そして、再婚し子供を産んだ元妻と街角で再会する場面。あなたにひどいことをたくさん言ってしまった、自分だけが辛いと思いこんでいたの、でももう恨んでないわと昂って泣く妻。感動的な場面なのだけれど、叶わぬ贖罪に生きた10年と、「ランチでもどう?」の軽さがなんともアンバランスで、ここにも奇妙なおかしみがある。

だからといって、リーの罪は赦されず、失敗は取り返しがつかず、死んだ人は戻らない。リーは最後まで、故郷に帰る決断はできない。
この世には「取り返しがつかないこと」が、やはりあるのだ。

それでも、「小さな贈り物」もまた、ある。

埋葬を終え、パトリックを親友夫婦に託して、リーはボストンに帰ると言う。また便利屋に戻るのだ。でも部屋は少し広くしたと。「ソファベッドを置きたいから」「なんのために?」「お前が泊まるかも」
リーの返答にパトリックが瞬時に涙ぐむとき、私たちもまた、目頭が熱くなっている。ほんの数ヶ月前は、"I go"の意味さえ取り違えたふたりなのに。もう余計な言葉はいらないのだ。それ以上話すと泣いてしまうから、ぶっきらぼうに照れ隠しの言葉をぶつけた後は、赤い目をしたまま無言で歩く男たち。

ラストシーン、釣りをするリーとパトリックの背中は、特別に仲が良くもない、特別に仲が悪くもない、ごく普通の父と息子の後ろ姿に見えて、その残像がいつまでも私たちの胸を打つ。





                    ボストンの北東、人口5000人ちょっとのマンチェスター・バイ・ザ・シーは、香港の名匠                      ピーター・チャン監督がアメリカに渡って製作した『ラブレター/誰かが私に恋してる?』の                    舞台にもなっている。差出人のわからないラブレターを巡って海辺の町で繰り広げられる騒
      動と、浮かび上がるちょっと風変わりな恋と人生。こちらもぜひ。

Tuesday, May 30, 2017

メッセージ (Arrival) 2016




画像:https://www.blogdecine.com/criticas/la-llegada-obra-cumbre-de-la-ciencia-ficcion



モノリスを思わせる巨大な黒い半長球状の物体が、ある日突然、音もなく世界12か所の中空に現れる。やがて「シェル」と呼ばれ始めたその物体の存在する領土領海を持つ国は、それぞれ独自に調査を始める。ほどなく「ヘプタポッド」と名付けられた「宇宙人」らしき存在が中にいることがわかり、飛来の目的を探るべくコミュニケーションが試みられるが、情報は各国間で共有されるよりも競争の材料となり、やがて攻撃の可能性を読み取ったとする中国が先頭に立ち、先制攻撃が決定される。今にも平和的対話の試みが打ち切られようとする間際、ヘプタポッド文字を習得するうちにある能力を身につけたアメリカの言語学者ルイーズは、その特殊な能力(weapon)を使うことによって、戦闘を回避。シェルは消滅する。

これが作品の、「一方の」軸だ。

でもこの作品には、この軸に絡み合うもう1つの深い物語がある。

映画の冒頭、ルイーズはこう言う。
「記憶というものは、不思議なものだ」

「私たちはどうもその順序や時系列にこだわってしまう」

「私はこれが『始まり』だと思っていた」
画面には生まれたばかりの赤ん坊と、愛おしそうに彼女を見つめるルイーズが映し出される。

「そして『中間』があってー」
愛くるしい少女の成長する様子。

「これが、『終わり』だった」
横たわり目を閉じる少女に、泣きながら寄り添うルイーズ。やがて憔悴しきった彼女が病院の廊下を歩く後ろ姿。

「でも、今のわたしは始まりがあり終わりがあるとはあまり思っていない。あなたの人生が終わったあとも、あなたがどんな子だったかを物語るようなあの日々は存在している」

「彼らが訪れた日のように」
そして、大学で教鞭をとるルイーズが、初めてシェルの存在を知った日が映し出される。

ヘプタポッドは言語を持っているが、地球人の言語とは、いささか成り立ちが違う。
まず、話し言葉と書き言葉は別のものであって関連性がない。書き言葉は1つの文章のようなまとまりが1つの円環で表され、円周のところどころにはジャクソン・ポロックの作品の絵の具の飛沫のような、あるいは中国や日本の筆文字のハネや払いのような、大小さまざまな模様のようなものがついており、その「模様」ごとに意味が表現されるところは、アルファベットのような表音(phonetic)文字ではなく、漢字のような表意文字(ideogram)に近いと言えるかもしれない。また、彼らの文法には時制がないとされるところも、中国語に近いかもしれない。中国からの移民を両親に持つ原作者テッド・チャンの出自が、ここに生かされているかもしれない。
さらに、物理を学んだ彼は、ヘプタポッドの言語体系の中に、フェルマーの最小時間の原理も忍ばせ、彼らの時空を超える能力を言語から読み解ける仕掛けを設定している。
この独特の言語を学ぶうちに、ルイーズはフラッシュバックのように、冒頭に現れた愛らしい少女の姿を頻繁に見るようになる。
なんどもありありと浮かぶ少女の姿を前に、ルイーズはたまりかねたように呟く。これはなに?あの子は一体誰なの?と。

それまで、幼い愛娘を失った母親としてルイーズの姿を見ていた観客たちは、ここできっと驚いたはずだ。
そして、過去の思い出として見ていた冒頭の少女の映像は、まだ起こっていない未来のことなのかと、頭の中で時系列の大きな転換を行なったはずだ。

ヘプタポッドのオファーするweaponとは、武器のことでも攻撃力のことでもなく、時空を超える能力、未来を知る能力のことだった。

ルイーズはその能力で地球の人類ばかりか、3000年後にはヘプタポッドたちの運命さえ救う能力を人々に伝えていく大きな役目を担うことになるのだが、同時に自分の人生において、同僚の物理学者イアンと結婚すること、イアンにはまだ彼女のような能力や知見が受け入れられず、娘を失う未来を告げられてルイーズの元を去ること、そして、娘は「あらかじめ見た未来のとおりに」幼くして命を閉じてしまうことになることを知ってしまっている。

それは、知っていながら選択した身勝手な未来なのか。

今までのわたしたちの解釈では、過去のあとに現在があり、その先にまだ訪れていない未来があり、過去や現在によって未来のあり方は変わるものとされている。

でも、ヘプタポッドの円環型の文字のように、娘Hannahの名前のように、どこが始まりでも終わりでもなく、先に見えない部分があるわけでもなく、全てが同等に並列に存在しているのだとしたら?

「時間は直線ではない」
ヘプタポッドとの会話の中で、ルイーズはそう習得する。
過去が確かにあったように、未来も確かに「あった」。
未来がすでに「あった」ものなら、未来は変えることは不可能なのだ。

でも、いくつかの未来は明るく輝かしいばかりではない。ルイーズのように、愛する娘の早逝という悲しみも織り込まれていることがある。そもそも、人は必ず死ぬのだから、どこかの将来には必ずすべての生き物の死が、あらかじめ埋めまれているのだ。

人間はどこかのタイミングで必ず身近な人間の死に出会う。

それは理屈の上では自明のことなのに、死に直面し、遺される人間にとって、こんなに辛い経験はない。

個人的なことだが、5年ほど前に夫を亡くした。突然の病気の発覚で、あっけないほど短い闘病だった。努力はことごとく実を結ばず、体の機能はすべての期待を裏切って加速度的に壊れていった。
外は日差しが降り注ぎ、昨日と地続きの平和な世界だったけれど、世界で自分一人が打ちのめされていた。この世に、ひとりぼっちになってしまったと思った。

喪失感を埋めるにはどうしたらいいのだろうと教会に行ったりグリーフケアのグループの活動を見たりした。でも、なにも自分の胸に開いた風穴を塞いでくれない。
「死ぬ」ってどういうことだろう、と問い続けた5年だった。

人はどうせいつかは死ぬ。でも、どうせ死ぬのだから、生まれないほうがいいだろうか。生まれても虚しいだろうか。死んだら、それはその人の「終わり」なのだろうか。
やがて私の問いかけは、冒頭のルイーズのつぶやきと結論に重なる。

どうせ読み終わってしまうのだから本は読まない、という考え方があるだろうか。本は、読み終えたら消えてしまうのか。そうではない。感動したことばも、物語も、本の中にちゃんと生きていて、読者に影響を与え続けている。
忘れがたく、語り継がれ、歴史に残る1日というものもある。
「シェル」が現れた日のように。

人も、死んでしまったら、生きていたことはないことにされるのか。そうではない。
自分にとって、かけがえのなかった日々や会話や、できごとは、人生の最後の日とともに消え果てるようなものではないのだ。彼が死に、私が死んでも、その思い出は娘の中に生きる。友人の中に、あるいはふと触れ合った人の中に、生きることもあるだろう。
それを終わりとは、言わないのではないだろうか。

「ありありとわかっていながら変えることができない未来」という設定によって避けることのできない死の受容を強調し、始まりがあり終わりがあるという直線型の時間の考え方から解き放たれることによって、死の断絶感をやわらげる方法を提示した作品、それが、少なくとも私にとっての『メッセージ(原作題:Story of your life)』だった。

きっとこの作品を生み出したテッド・チャンも、小説よりもはるかにわかりやすく噛み砕いて、言葉に宿る英知と、対話の重要性と、そして時間と人生の捉え方を提示してくれたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督も、乗り越えがたい悲しみがあり、考え続けた日々があった人ではないだろうか。

Friday, January 20, 2017

ブラインドマッサージ(推拿/Blind Massage) 2014


      (画像:https://www.asiafull.com/blind-massage-2014/)


幼少期の事故で失明、全盲となったことに絶望し、割った丼のかけらで首を切って自殺を図ったこともある端正な顔立ちの青年、小馬。
盲人たちの働くマッサージ院で働き始めるが、新入りのカップルの女性に横恋慕して初めての性衝動を抑えられず、先輩に風俗店に連れられて行き、そこで働く女性マンと出会う。マンの客と揉め、ガラス戸に突っ込むようにして倒れ込んだ衝撃で部分的に視力が回復するが、小馬はそれを誰にも告げず、マンと駆け落ちして行方知れずとなる。
時が経ち、カメラは手書きの粗末な看板を捉える。小馬按摩店。やがて白杖を持つ青年が現れ、後ろ姿を追うと粗末なアパートの一室に構えた按摩店と、その前の外廊下で洗面器の冷たい水で髪を洗う質素な服装のマンの姿が映される。マンの姿は小馬の限られた視力を通して示されるので、周囲はぼやけ、はっきり見えるのは視界の中心のマンの顔だけである。しかし、それで十分なのだ。心から見たかった愛しい人の美しい顔が、今は見られる。これしか見たくないし、これさえ見られればいい。だから小馬は目の前にいるマンにそれ以上近づくことも声をかけることも抱きしめることもなく、見たいものが見える幸せをいつまでも噛みしめるように、心から幸せそうに微笑んでいる。

小馬の物語はこんな具合だ。しかし、見えない世界から出て「見える」ようになる幸運な奇跡に見舞われる者はほとんどいない。

作品はひとつのマッサージ院に身を寄せ、もがき奮闘する男女の群像劇になっている。
そのなかに、とりわけその身の哀れが切なく胸にせまる人物がいる。マッサージ院の共同経営者の1人、沙復明だ。

多彩な趣味を持ち、経営者としてそれなりの資産も持っている彼は穏やかで明るい。だが独身で見合いを繰り返している。
1歳で失明した彼はほとんど先天性の全盲のように見えないことが普通で、そのことに特に葛藤を感じなかったという。
しかし、その彼の穏やかな日々に変化が訪れる。マッサージ店で働く都紅が、客から口々に美人だと褒められるのを聞くうち、美とはなんなのか、どういう状態を美しいと言うのか、自分には想像できない「美」という概念に囚われるようになり、それが都紅への恋慕になっていく。

しかし都紅は小馬に惹かれており、自分には関心を持ってもらえない。都紅は偶発的な事故でマッサージ師にとっては生命線である手が不自由になり、盲人ならではのプライドから復明の援助を断って姿を消す。
復明は気の毒なほど憔悴し、血を吐いて倒れる。院は解散となり、皆それぞれの道を歩き出すことになる。

作品は小馬の事故のエピソードで始まり小馬の笑顔で終わるため、小馬が物語の中心のようにも見えるけれど、作品の主題は断然、復明の「どうしても果たしたいことがどうしても果たせない」哀れさにあると思う。

復明の恋は叶わず、それなら経済的援助をという親切心さえ果たさせてはもらえない。その失恋だけでも痛々しいが、その下に、もっともっと深く、本人さえも気づかないか、気づいた途端に蓋をしてきた希望と絶望が潜んでいる気配がするのだ。

それは、「見たい」、という希望、それが絶対に叶わないという絶望だ。

神以外には誰にもどうしてやることもできない、一生叶わず、叶わない事実と向き合い続けなければならないという切なすぎる事実。
それを呼び覚ましたのが、「見えない人間には理解することができない」全く未知の「(外見の)美」という概念だったのだろう。

復明自身、どれだけ自分が見えるようになりたいと思っているか、その願望の強さに気づいていたかどうか、わからない。
作中で二度ほど彼は「みんな揃っているから写真を撮ろう」と言って記念写真を撮ろうとする。写真とは、その瞬間を記録して、のちに見返すためのものだろう。でも彼らには撮った写真を見る機会はない。なんのために写真を撮るのだろうと疑問だったけれど、おそらく彼らにとって集合写真を撮ることは、晴眼者とは違う意味合いを持っているのだろう。見ることはできない。でも晴眼者たちはこうやって写真を撮る。みんなで集まって、一斉に笑う。いいじゃないか、みんなで集まって、一緒に笑って結束を確かめ合おう…

復明は知らず知らずのうちに、見える人間たちの世界をなぞり続けていたのかもしれない。彼らはダンスをする。よし、踊ろう。彼らは詩を書く。よし、書いてみよう。彼らは結婚している。僕も結婚しよう。というふうに。

復明の切なさや哀れさが胸を打つのは、盲人でなくても、みんなそれぞれ生きていく中で、「どうしても不可能なこと」を抱えて、折り合いをつけながら生きているからだろう。
復明と同じく、それはあまりに不可能な夢でありすぎて、普段は押し殺して生きているかもしれない。でも、ふとそれが浮かび上がって来た時、どうしようもない無力感に襲われる。
復明の絶望の中に、自分の絶望を思い出してしまうのだと思う。

盲人ゆえに細やかに気づく音や気配、それらが生む緊張、朗らかに支え合うたくましさ、倒れた復明を抱きかかえ、必死でタクシーを呼び止める仲間同士の絆の強さなど、盲人たちならではの日々が生き生きと描写されているこの作品から、ありがちな主題だけを拾い上げて矮小化したくはないが、復明の葛藤や切なさにはどんな人でもちくりと胸を刺される普遍性があるのではないかと思う。

想いを寄せる女性が、自分の存在に気づかないままかたわらの別の男性に想いを告げる…盲人ならではの残酷なシチュエーションにも、拳を固め身を縮めて息を殺すだけの復明。

生まれ変わったら木になりたいと自作の詩を呟きながら、彼の「木」は「半分は地中に埋まり半分は風にそよぐもの」であって、形も色もないのだ。

そっと近よって手を握り、温かさを伝えてやれる人はいないのか…。そんな気持ちにさせる人物像を、秦昊が見事に演じていたと思う。


Thursday, September 22, 2016

怒り (RAGE) 2016




画像:https://festivalreviews.org/2016/09/11/tiff-2016-movie-review-rage-ikari-anger-japan-2016-top-10/


一見して、整形を繰り返し長期間の逃亡に成功した実在の殺人犯、市橋達也をモデルにしたとわかる犯人が、この作品では夫婦を惨殺して、逃げている。ただし、作品中には彼にそっくりな「鋭い一重まぶた」の痩せ型の青年が、一人ではなく三人登場する。

一人は、エリートサラリーマンのゲイに拾われるように誘われ、同棲を始める同性愛者、ナオト。一人は、千葉の漁港で正社員になることを固辞してバイトを続ける青年、田代。そしてもう一人は、沖縄の無人島の廃墟に住み着いたバックパッカー、田中。彼らは一様に、過去も身元もはっきりしない。あまり表に出ることなくひっそりと生きている。

繰り返し画面に映る、三人の誰にも見える手配写真を見ながら、観客は誰が犯人なのかを考える。犯人の特徴である頬に3つ並んだホクロを持つナオト、名前を呼ばれると飛び上がるほど驚く田中、偽名を使っていたことがわかった田代。誰もが疑わしくみえるようにストーリーは進んでいく。

作品の最もエモーショナルな部分を支えるのは、彼らと、彼らを愛し信頼する人々との間で厳しく試される「信じる」ということ。「信じる」、確信、信頼という堅固な言葉とは裏腹に、本当に人を信じることはあまりにも難しく、信じているという確信はあまりにも脆い。
ナオトの死を告げる警察からの電話に、殺人犯との関わりや同性愛者であることが知れるのではないかと恐れ、ナオトを「知らない」と言ってしまう優馬。「信じてくれてありがとう」と言っていたナオトを、裏切った自分への悔恨。
「愛子にだけは本当のことを言う」と告げられた田代の過去を信じられず、警察に通報してしまった自分の弱さへの慟哭。
「信じると言いながら信じきれなかった」のがこの二組の物語なら、「信じていたのに裏切られた」のが最後に残った田中と、彼を慕っていたタツヤといずみの辛い物語だ。

「信じる」と言う覚悟の甘さ、信じることの難しさや脆さ。それは俳優たちの熱演が十分に伝えていると思う。
問題は、この作品のテーマは、「怒り」だということだ。

発端となる殺人現場には、ドアに血糊で大きく書かれた「怒」という文字が残されている。これはどういう意味なんでしょう、犯人はなにに怒っていたんでしょうねと若い警官は訝る。

ここが、惜しいところだと思うのだか、なぜなにに怒っていたかは、「建設現場で一時犯人と一緒にいたことがある」窃盗犯の「推測」の「言葉」で「解説」される。

これが本当にもったいない。

大切なテーマなのに、小説ではなく映画なのに、なぜ言葉(セリフ)で説明させるのか、と過去の同監督作品である『悪人』でも思った。途中まで本当に見応えがあり、今回同様俳優は凄みさえ感じる熱演だったので本当に気が抜けた。
今回も、「たまたま逮捕した窃盗犯」がたかが一時的に同じ現場にいただけで、事件の核心や動機を語り始めたのでちょっとがっかりしてしまった。

しかもそれは「推測」なので、正しいとも限らないという逃げまである。
それが説得力のある、「これは怒りを爆発させて当然だ」と納得のできる動機ならともかく、「猛暑の中、現場と指示されて行ったはずが勘違いであり、せせら笑われてなにもかもいやになって家の前に座っていたら帰宅した女性に冷たい茶を振る舞われて見下されたとカッとした」というのは、一生懸命想像力を総動員しても、無理やり納得しろと言い聞かせなければ犯人の心情に寄り添えない。
平板な言葉で説明するのではなく、たとえば田中の家の、あのただの雑然や混沌とは違う独特の部屋の様子、空き缶やカップヌードルの空き容器を収集物のように整然と並べ、些細なニュースへの感想や不満をいちいち紙に書いて窓にびっしり貼り付ける、あの不気味な偏執気質で、小さな怒りを溜めに溜めて痩せた体の内側が今にも爆発しそうなほど怒りでぱんぱんになっていく様子を、きっとあの映像なら、あの俳優なら、あの監督なら、描けたのではないかと思う。それが残念な気がする。

沖縄での彼の突然の怒りの爆発も、分かりにくい。いずみちゃんを強姦した米兵、それを止められなかった自分に対する怒りならまだわかると思っていたけれど、(それが本気なのかどうかも不明だが)面白がって見物していたのだと言うし、ならば何に対する怒り?途中で見物を邪魔されたから?えええ?となってしまって、やはりこれも「一生懸命辻褄を合わせている」途上だ。

「怒り」の話は、犯人の田中が沖縄にいたことで、沖縄での物語に集中している。
蹂躙されたいずみちゃんの、ぶつけようがない「ぶつけてもどうせどうしようもないんでしょう」と内に溜め込むしかない怒り。「ムカつくとかそういうんじゃなくて、本当に心の底から怒っていることを相手に伝えるにはどうしたらいいんだろうな」と言っていたタツヤの、信じていた田中に裏切られ、いずみを笑い者にしたことに対する怒りは、殺人に向かってしまう。

穿った見方すぎるかなと思いつつ、田中はタツヤの怒りを解放するために、わざと自分を殺させるように持って行ったのかなとさえ考えてみたが、それでは直前に3つのホクロを切除しようとしていたことの説明がつかない。

とにかく、物語がテーマである「怒り」に集約されて、納得が深まるべきラストに向かって、どんどんと混沌とするのだ。

さらに言えば、作者や監督が「怒り」というものを肯定しているのか否定しているのか。怒るな!と言っているのかもっと怒れ!と言っているのかもわからない。沖縄の基地返還デモさえ描かれる。これはどうしたって「ぶつけても仕方ないかもしれないけれど伝えずにはいられない怒り」の象徴だ。しかし、田中の自分勝手な怒りは、どんなに恵まれない境遇や社会システムの不備を反映しているなどのエクスキューズを積み上げようが、なんの関係もない夫婦二人の命を無残に奪っているのだ。

いやいや。それは考えすぎで欲張りだ。単に「現代のいろんな怒りを多角的に描いてみました。どの怒りも悲劇的で理不尽ですね」的な作品なのだろう。

でも、だとすると正直やっぱり、すこし物足りない。

信頼を寄せていた田中に裏切られ、同じく信頼していたタツヤは罪を犯して去り、一人残ったいずみは、ラストシーンで怒りを解き放つ。
いずみが、これからどうするのかはわからない。誰にも言わず黙って耐えることを止め、怒りをぶつける決意をしたのか、またはなにもできず、信頼も友人も失ってしまった理不尽に対してその場の怒りをぶつけているだけなのか。

それでもいずみの若さは、彼女を囲む海は、全てを受け止めて消化して力強く前に進んでいけるように見えて、それは本当に救いだった。

Thursday, April 14, 2016

ルーム(ROOM)2015

             
                   画像:http://www.imdb.com/title/tt3170832/


巨大な仮面を四六時中かぶって世間と自分とを遮断し、仮面の中の空間にこもることによって安寧を得る主人公を描いた『FRANK』の監督、レニー・エイブラハムソンが次にメガホンを取ったのは、誘拐監禁によって7年ものあいだ世間から隔絶されるという壮絶な体験をした母と息子を描いた作品、『ROOM』だ。

17歳で誘拐され、狭い物置小屋に監禁されたまま誘拐犯の子を産み、たったひとりで5歳まで育てた主人公ジョイ。やっとの事で監禁状態から逃れるが、あんなにまで夢見た外の世界は幸せなことばかりではない…。
監禁から逃れる場面のスリリングさ、7年ものあいだ日常が途切れることによる喪失の大きさ、2人を迎える「世間」への適応の困難さなどが丁寧に描かれ、見応えのある作品になっている。

とりわけ、生まれてから一度も、ROOMと呼ぶ物置小屋の限られた空間から出たことがない特殊な育ち方をした息子ジャックを演じるジェイコブ・トレンブレイくんは、どの瞬間も「演技」とは思えないほどの驚異的なリアルさで、この特異なストーリーを成り立たせている。

やっとのことで脱出の機会を得たのに、生まれて初めて見たどこまでも広がる青空に、あんなに予行演習した脱出手順全てが吹っ飛んでしまうほど驚く様子。
母に託された命綱のようなメモを監禁犯にあっさり奪われ、警察に保護されても蚊の鳴くような小声で単語をいうのがやっと…。ジャックの窮地に観客も気が気ではない。
これだけ伝えればいいからと教えられた母親のフルネームも忘れたジャックに、しかし女性警官は驚くほどの根気強さで接し、わずかな言葉の端々からヒントを読み取る聡明さで、ついに母ジョイも監禁場所から救い出す。このくだりなどほんとうにハラハラする。

そう書くと、監禁という憎むべき犯罪とそこからの回復がテーマのようである。
しかし、実はこの作品は、そのストーリーの中に入れ子のように大切なもう一つの核を持っている気がしてならない。

その証拠にこの作品は、こういう題材のものにありがちな事件の悲惨さを、あえてあまり描かない。監禁から抜け出して元の生活に戻ってきて、直面した世界の冷酷さも、必要以上には描かない。長い監禁生活から出たばかりの親子にサングラスと日焼け止めを差し出す医師も、くだんの警官も、母もそのボーイフレンドも、テレビのキャスターでさえ配慮に優れ、思いやりにあふれている。
このようなストーリーの場合、むしろ事件から解放された後の「世間」の人々の無神経や冷酷さを見せられることが多く、そんな展開を見るのはステレオタイプで嫌だなと思っていたのだけれど、ジョイの母や周りの人たちは、この悲惨な事件からやっとの事で抜け出してきた親子を安全な家の中にほとんど隔離し、昔の友達や知人に会わせることもせず、マスコミの餌食にさせず、家庭の中に、それこそほぼ「監禁」するように大切に丁寧に守りながら回復を待つ。

監督は監禁をセンセーショナルに描くことなど、まったく目指していないように見える。なぜなら、そこには本当の主題がないからなのではないか。

それでもジョイは、女性キャスターに「子どもだけでも外に出す選択肢はあった。子どもだけにはよりよい環境を与える機会もあったのになぜそうしなかったのか」と問われて精神のバランスを崩す。自分は自分勝手で子供の幸せを奪ったのではないかという自身の問いかけに反論しきれなかったからだ。

しかし、ROOMを恋しがるジャックに祖母が「狭くて嫌だったでしょう?」と戸惑いながら尋ねると、ジャックは哲学的とも思える返事をする。

「ううん、どの方向にも果てしなく広くて、終わりが見えなかったよ。それにいつもママがいた」

ジャックにとって、生活の唯一の場所であったROOMは、決して忌まわしい空間ではなかったのだ。

わずか17歳で世界との接点を絶たれながら、ジョイは精一杯息子を守る方法を考え抜き、ここだけが世界で、あとのものはTVの中の作り物だと言い含め、狭い空間いっぱいを使って運動させ、日光をほとんど浴びることのない生活では確かに不足しがちなビタミンをサプリメントで補給し、絵を描かせ、歌を歌い、卵の殻やトイレットペーパーの芯でおもちゃを作り、言葉を教え、ストレス発散にたまに大声を出させる。
ジョイは解放後の苛立ちの中で母親の育て方を詰るが、こんな知性やサバイバル能力は、17歳までに賢明な母親がしっかり身につけさせたものなのだろう。

ROOMの外に、ジャックに与えられるべき「よりよい環境」があったのではなく、なけなしの空間ではあれ、ROOMこそジャックに必要なものがほぼすべてそろった安心と愛情に満ちた「世界」だったのだ。

ROOMは、もちろん誘拐監禁という犯罪を擁護するものでは断じてないけれど、世にも悲惨で劣悪な環境をさえ、懐かしい空間に変えることができた1人の賢明な若い母親と、その愛情を受けて、そんな環境で育ったとは信じられないような素直さと知性を育んだ愛らしい息子の深い愛の物語だ。

わたしたちはここから様々なことを学ぶことができる。

終盤、ROOMに一度帰りたいというジャックに応じて、ジョイは二人で監禁小屋を訪れるが、ジャックは家具や証拠物品が持ち出されたがらんとした小屋の内部を見て、不思議そうに(ROOMが)「縮んだの?」と尋ねる。
そして「そうか、ドアが開いているからだ」とつぶやく。
「ドアが開いているのは本当のROOMじゃないね」と。

そう、外にも広い世界が広がっていると知ってしまったら、ROOMは狭い空間でしかない。
でも、「唯一の空間」であれば、普通に暮らす私たちにとって自分の生活範囲が「唯一のもの」であるように、「終わりが見えない」ほど広いのだ。

この物語では2人がROOMにいるのはオールド・ニックの憎むべき犯罪のせいだけれど、世の中には心ならずも貧困のために、または政情不安のために、宗教の弾圧のために、などさまざまな理由で、劣悪な環境に子どもをつきあわさざるをえない場合が存在する。それは、誘拐監禁と同じように、逃れがたい不幸だ。そんなところに子どもをつきあわせるよりは、親と引き離しても子どもをより良い環境に置くべきではないかという議論もあるだろう。女性キャスターの問いかけのように。

でも、どんな劣悪な環境の中でも、知性とほんものの愛情があれば、その空間はどこまでも広がるのだ。

ドアを閉めたほうがいい?と聞くジョイに、部屋の外の「せかい」で生きていくと決めたジャックはしかし、首を振る。
「せかい」はとてつもなく広い分、さまざまな人がいる。困難も大きいかもしれない。でも、FRANKもやがては仮面を捨てたように、幼少期という繭にはいつか穴が開き、だれしも外に出なくてはならない。

繭の中でどれだけの愛情と信頼感を構築したかで、きっと世界の見え方は変わるのではないかと思う。
ROOMのポスターは、よく見ると青空が広がる「せかい」が、部屋の形をしている。

ジャックのような経験をした人間は滅多にいないと思うけれど、大人になってから子供の頃過ごした部屋や施設を再訪するとその狭さ小ささに驚いたという経験は誰しも覚えがあるだろう。
本当に狭苦しい空間が「どこまでも果てしなく広がる世界」だったあの頃…。

『リリーのすべて』(The Danish Girl)がその特異性の中に愛情の普遍性を描いていたのと同じように、この特異な事件を描いた作品の中に隠れているのも、たいへん普遍的な、成長と愛情の物語なのかもしれない。

Saturday, March 26, 2016

Bee-stung beautiesの時代!?(リリーのすべて・キャロル)


画像:http://www.buzzfeed.com/eugeneyang/womens-ideal-body-types-throughout-history#.hbR4yBYV9



今年1月に"THE SUN"のネット記事に"THE breast boom has gone bust, with Hollywood’s bee-stung beauties taking over"と題する記事が掲載されていた。つまり、

「おっぱいブーム弾け、ハリウッドは"蜂に刺された程度の胸"の美女の時代に」

というものだ。

代表的な「蜂刺され」美女として紹介されているのは『シンデレラ』のリリー・ジェームズ、『スターウォーズ』の新たなヒロイン、デイジー・リドリー、そして『コードネームU.N.C.L.E.』『リリーのすべて』『エクスマキナ』と話題作が続き、一気に人気女優の仲間入りをした、今をときめくアリシア・ヴィカンダー。

記事によれば、過去に豊胸手術を受けたビクトリア・ベッカムなど有名人の中には、より自然な外見が好まれるようになった風潮を受けて、すでにニセ胸を"減量する"手術を受けた女性たちもいるとのこと。

アリシア・ヴィカンダーについては、『リリーのすべて』で大胆なヌード場面があり、「オリーブ色の肌」と表現される美しい肌色のなめらかな裸体を披露しているけれど、胸もとは、サン紙の記事の表現もまあ下品だけれど確かに、と頷いてしまうような控えめな膨らみ。

そして、胸以上に目を引いたのは、かつて美人女優がこういう場面で披露してきた裸体史上もっとも自然かもしれない、「あっと、撮影前にご飯食べすぎちゃったー」みたいな微笑ましい丸みを帯びたおなかだった。

見終わってからも気になり、たしか女性のスタイルについては歴史上随分美意識が変わっているのだよな、それをコンパクトに示した動画があったはず…と探してみた。
はい、ありました。

この記事の中に出てくる動画がそれ。

そして、『リリーのすべて』で描かれる1920年代を確認すると、たしかに思ったとおりの美意識が支配する時代だったよう。

平らな胸、ウエストは軽視されている。短いボブヘア。少年のような体型。


アイナーが服とかつらだけで女性になるには、もっともやりやすかった時代だったかもしれない。

アリシアの作中のあの姿も、1920年代に美しいとされたスタイルを踏まえ再現したものなのか。
でも、この現代とは違う美意識に合わせた姿を、「おなかは平らに引き締まってなければならない、とくに美人女優たるもの!」というコンセンサスに反して披露するのは結構勇気が必要なはず。アリシア・ヴィカンダーって結構スタイル悪いよね!で片付けられる危険性も大ありだろうから。
監督の要請だったのだろうか。女優さんもいろいろ大変だ。


美人女優と胸といえば、『キャロル』で完璧に美しい人妻を演じたケイト・ブランシェットについても、面白い記事を読んだ。
『キャロル』のコスチューム・デザイナーであるサンディ・パウエルへの『ファッショニスタ』のインタビューだ。

あのシルエットを出すためには下着作りから取りかからなければならなかったの。あれはケイトのありのままの体型じゃないの…彼女はあんな突き出した胸をしてるわけじゃないのよ(笑)。信じられないかもしれないけどほとんどのジャケットはヒップの形のパッドをつけてウエストを小さく見せ、ブラであの胸の形を作ってるの。下着からその上に着る洋服のシルエットを構築しているわけなの。

なんと、そうだったのか!
そういう目に見えない部分での工夫があって、あの見るからに上質な生地、高級な仕立てのキャロルらしい円熟のゴージャスさが成り立っていたわけだ。

裏話を聞くとすこしがっかりするようでもあるけれど、スタッフたちの作品作りの情熱も同時にうかがえる。

そして、彼女たちさえ実は完璧なスタイルではないと知ったら、明日はちょっと元気に出かけられるかもしれない。

Wednesday, March 23, 2016

リリーのすべて (The Danish Girl) 2015


                     画像: https://en.wikipedia.org/wiki/The_Danish_Girl_(film)


肖像画家の妻を持つ人気風景画家、アイナー・ヴェイナーが、妻の求めに応じて女性モデルの代わりを務めたことから秘めてきた自分のアイデンティティに目覚め、やがて自分は女性であると確信していく。
リリーという女性名を名乗り、女性装をするだけでは心と体の違和感をぬぐうことができず、ついに当時ほとんど行われていなかった性転換手術を受ける決意をする。

しかし、あまりにもあっけなく悲劇は訪れる。


この作品は、「実話に基づいている」とは言いながら、実在のアイナー/リリーとは、年齢、風貌、夫妻の歴史や手術歴などが大きく異なり、それに対する批判もあったようだ。

だから、「伝記映画」として見るのは正しい見方ではなく、あくまでもこの類まれな一組の夫妻の物語を借りて、製作者たちにはどうしても伝えたいことがあり、その主張に沿って並べ替えられたストーリーだと割り切って見るのが正しい気もする。

そのため、メタファーはわかりやすく、こうした性別違和を抱える人々への偏見はリリーが次々と門をたたく医者たちの無理解な診断に代弁され、差別の過酷さは公園でリリーを襲う若者たちに代表される。

故郷の沼地には、当時ひそかに恋をしていた少年ハンスとの思い出の凧が、舞い上がることなくいまも沈んでいる。
だからアイナーは沼地の絵を描くことをやめられない。

対して、女性として生き始めたリリーが買った美しいスカーフは、なんどか妻のゲルダに渡されようとしては返され、ついにゲルダとともに故郷の風景の中に帰ったところで、風を受けて高く舞い上がる。

沼に沈め隠されていたもの、そしてついに高く舞い上がったスカーフは、「自分らしく生きる自由」の象徴なのだろう。
なんどかゲルダに渡そうとしたことは、「私の犠牲になることなく、あなたもあなたらしく生きて」という願いだったろう。

また、自然でのびやかな裸体を奔放にさらす「美しくshamelessな私の妻、ゲルダ」の肉体と、男性器を脚の間に隠し、ふくらみのない胸をドレスで覆って、背中の曲線に鏡の中だけのつかの間の女性性を見いだせる位置を探る、切ない努力をするリリーの裸体との対比は、リリーの願いの困難さを表現している。

そういう、「ダイジェスト感」、「わかりやすすぎるきらい」がなくはないけれど、それを補って余りあるのがエディ・レッドメインの、役柄ごとに細胞まで入れ替えているのではないかと思うほどの演技力と、エディほどの見せ場はないけれど、想像を絶する困難な立場に置かれながら、無償の愛を注ぎ続けるけなげな妻ゲルダに説得力を与えたアリシア・ヴィカンダーの演技だと思う。

自分の中の女性を強く意識し始めてからのアイナーは、完全な男性装をしていても、いや、むしろ男性装の時にこそ首や肩やウエストあたりに「女性らしさ」が匂い立ち、感嘆するしかない。
作品の序盤に登場したころは普通の男性だったのに、「リリー」になってからは同じいでたちをしていても、「胴」ではなく「ウエスト」になるのだ。すごい。

脇役のベン・ウィショーもアンバー・ハードもマティアス・スーナールツも、画面に現れるだけで語られない背景に潜む物語を感じさせることができる憂いを秘めた美形なので、とにかく画面が美しい。

性別違和を抱える人たちの「自分らしく生きたい」という願いがいかに自然発生的かつ切実なものであるか、それを「あくまで男性として機能すべき」「同性愛だろう」「精神異常だ」と切って捨てることがいかに過っていて残酷か。
改めてそんな問題を考えるきっかけになる作品だと思う。

私は性別違和を抱える夫こそいないけれど、ゲルダの困惑や、だんだんと夫を受け入れていく様子は、「母親」にも共通するものではないかなあ、と思いながら見ていた。
母親にとっての子どもも、時に全く期待や予想を裏切る方向に成長する。でも、無理やり母親の理想の姿に押し込めることはできない。どんなに自分の願いとは違う形でもそれが子どもという自分とは違う存在の目指す姿なのだから。

ありのままを受け入れることの痛みと寛容。
それはこんな特殊なケースではなくても、けっこう普遍的に与えられる試練と成熟の姿なのかもしれない。