Wednesday, March 23, 2016

リリーのすべて (The Danish Girl) 2015


                     画像: https://en.wikipedia.org/wiki/The_Danish_Girl_(film)


肖像画家の妻を持つ人気風景画家、アイナー・ヴェイナーが、妻の求めに応じて女性モデルの代わりを務めたことから秘めてきた自分のアイデンティティに目覚め、やがて自分は女性であると確信していく。
リリーという女性名を名乗り、女性装をするだけでは心と体の違和感をぬぐうことができず、ついに当時ほとんど行われていなかった性転換手術を受ける決意をする。

しかし、あまりにもあっけなく悲劇は訪れる。


この作品は、「実話に基づいている」とは言いながら、実在のアイナー/リリーとは、年齢、風貌、夫妻の歴史や手術歴などが大きく異なり、それに対する批判もあったようだ。

だから、「伝記映画」として見るのは正しい見方ではなく、あくまでもこの類まれな一組の夫妻の物語を借りて、製作者たちにはどうしても伝えたいことがあり、その主張に沿って並べ替えられたストーリーだと割り切って見るのが正しい気もする。

そのため、メタファーはわかりやすく、こうした性別違和を抱える人々への偏見はリリーが次々と門をたたく医者たちの無理解な診断に代弁され、差別の過酷さは公園でリリーを襲う若者たちに代表される。

故郷の沼地には、当時ひそかに恋をしていた少年ハンスとの思い出の凧が、舞い上がることなくいまも沈んでいる。
だからアイナーは沼地の絵を描くことをやめられない。

対して、女性として生き始めたリリーが買った美しいスカーフは、なんどか妻のゲルダに渡されようとしては返され、ついにゲルダとともに故郷の風景の中に帰ったところで、風を受けて高く舞い上がる。

沼に沈め隠されていたもの、そしてついに高く舞い上がったスカーフは、「自分らしく生きる自由」の象徴なのだろう。
なんどかゲルダに渡そうとしたことは、「私の犠牲になることなく、あなたもあなたらしく生きて」という願いだったろう。

また、自然でのびやかな裸体を奔放にさらす「美しくshamelessな私の妻、ゲルダ」の肉体と、男性器を脚の間に隠し、ふくらみのない胸をドレスで覆って、背中の曲線に鏡の中だけのつかの間の女性性を見いだせる位置を探る、切ない努力をするリリーの裸体との対比は、リリーの願いの困難さを表現している。

そういう、「ダイジェスト感」、「わかりやすすぎるきらい」がなくはないけれど、それを補って余りあるのがエディ・レッドメインの、役柄ごとに細胞まで入れ替えているのではないかと思うほどの演技力と、エディほどの見せ場はないけれど、想像を絶する困難な立場に置かれながら、無償の愛を注ぎ続けるけなげな妻ゲルダに説得力を与えたアリシア・ヴィカンダーの演技だと思う。

自分の中の女性を強く意識し始めてからのアイナーは、完全な男性装をしていても、いや、むしろ男性装の時にこそ首や肩やウエストあたりに「女性らしさ」が匂い立ち、感嘆するしかない。
作品の序盤に登場したころは普通の男性だったのに、「リリー」になってからは同じいでたちをしていても、「胴」ではなく「ウエスト」になるのだ。すごい。

脇役のベン・ウィショーもアンバー・ハードもマティアス・スーナールツも、画面に現れるだけで語られない背景に潜む物語を感じさせることができる憂いを秘めた美形なので、とにかく画面が美しい。

性別違和を抱える人たちの「自分らしく生きたい」という願いがいかに自然発生的かつ切実なものであるか、それを「あくまで男性として機能すべき」「同性愛だろう」「精神異常だ」と切って捨てることがいかに過っていて残酷か。
改めてそんな問題を考えるきっかけになる作品だと思う。

私は性別違和を抱える夫こそいないけれど、ゲルダの困惑や、だんだんと夫を受け入れていく様子は、「母親」にも共通するものではないかなあ、と思いながら見ていた。
母親にとっての子どもも、時に全く期待や予想を裏切る方向に成長する。でも、無理やり母親の理想の姿に押し込めることはできない。どんなに自分の願いとは違う形でもそれが子どもという自分とは違う存在の目指す姿なのだから。

ありのままを受け入れることの痛みと寛容。
それはこんな特殊なケースではなくても、けっこう普遍的に与えられる試練と成熟の姿なのかもしれない。