Tuesday, May 30, 2017

メッセージ (Arrival) 2016




画像:https://www.blogdecine.com/criticas/la-llegada-obra-cumbre-de-la-ciencia-ficcion



モノリスを思わせる巨大な黒い半長球状の物体が、ある日突然、音もなく世界12か所の中空に現れる。やがて「シェル」と呼ばれ始めたその物体の存在する領土領海を持つ国は、それぞれ独自に調査を始める。ほどなく「ヘプタポッド」と名付けられた「宇宙人」らしき存在が中にいることがわかり、飛来の目的を探るべくコミュニケーションが試みられるが、情報は各国間で共有されるよりも競争の材料となり、やがて攻撃の可能性を読み取ったとする中国が先頭に立ち、先制攻撃が決定される。今にも平和的対話の試みが打ち切られようとする間際、ヘプタポッド文字を習得するうちにある能力を身につけたアメリカの言語学者ルイーズは、その特殊な能力(weapon)を使うことによって、戦闘を回避。シェルは消滅する。

これが作品の、「一方の」軸だ。

でもこの作品には、この軸に絡み合うもう1つの深い物語がある。

映画の冒頭、ルイーズはこう言う。
「記憶というものは、不思議なものだ」

「私たちはどうもその順序や時系列にこだわってしまう」

「私はこれが『始まり』だと思っていた」
画面には生まれたばかりの赤ん坊と、愛おしそうに彼女を見つめるルイーズが映し出される。

「そして『中間』があってー」
愛くるしい少女の成長する様子。

「これが、『終わり』だった」
横たわり目を閉じる少女に、泣きながら寄り添うルイーズ。やがて憔悴しきった彼女が病院の廊下を歩く後ろ姿。

「でも、今のわたしは始まりがあり終わりがあるとはあまり思っていない。あなたの人生が終わったあとも、あなたがどんな子だったかを物語るようなあの日々は存在している

「彼らが訪れた日のように」
そして、大学で教鞭をとるルイーズが、初めてシェルの存在を知った日が映し出される。

ヘプタポッドは言語を持っているが、地球人の言語とは、いささか成り立ちが違う。
まず、話し言葉と書き言葉は別のものであって関連性がない。書き言葉は1つの文章のようなまとまりが1つの円環で表され、円周のところどころにはジャクソン・ポロックの作品の絵の具の飛沫のような、あるいは中国や日本の筆文字のハネや払いのような、大小さまざまな模様のようなものがついており、その「模様」ごとに意味が表現されるところは、アルファベットのような表音(phonetic)文字ではなく、漢字のような表意文字(ideogram)に近いと言えるかもしれない。また、彼らの文法には時制がないとされるところも、中国語に近いかもしれない。中国からの移民を両親に持つ原作者テッド・チャンの出自が、ここに生かされているかもしれない。
さらに、物理を学んだ彼は、ヘプタポッドの言語体系の中に、フェルマーの最小時間の原理も忍ばせ、彼らの時空を超える能力を言語から読み解ける仕掛けを設定している。
この独特の言語を学ぶうちに、ルイーズはフラッシュバックのように、冒頭に現れた愛らしい少女の姿を頻繁に見るようになる。
なんどもありありと浮かぶ少女の姿を前に、ルイーズはたまりかねたように呟く。これはなに?あの子は一体誰なの?と。

それまで、幼い愛娘を失った母親としてルイーズの姿を見ていた観客たちは、ここできっと驚いたはずだ。
そして、過去の思い出として見ていた冒頭の少女の映像は、まだ起こっていない未来のことなのかと、頭の中で時系列の大きな転換を行なったはずだ。

ヘプタポッドのオファーするweaponとは、武器のことでも攻撃力のことでもなく、時空を超える能力、未来を知る能力のことだった。

ルイーズはその能力で地球の人類ばかりか、3000年後にはヘプタポッドたちの運命さえ救う能力を人々に伝えていく大きな役目を担うことになるのだが、同時に自分の人生において、同僚の物理学者イアンと結婚すること、イアンにはまだ彼女のような能力や知見が受け入れられず、娘を失う未来を告げられてルイーズの元を去ること、そして、娘は「あらかじめ見た未来のとおりに」幼くして命を閉じてしまうことになることを知ってしまっている。

それは、知っていながら選択した身勝手な未来なのか。

今までのわたしたちの解釈では、過去のあとに現在があり、その先にまだ訪れていない未来があり、過去や現在によって未来のあり方は変わるものとされている。

でも、ヘプタポッドの円環型の文字のように、娘Hannahの名前のように、どこが始まりでも終わりでもなく、先に見えない部分があるわけでもなく、全てが同等に並列に存在しているのだとしたら?

「時間は直線ではない」
ヘプタポッドとの会話の中で、ルイーズはそう習得する。
過去が確かにあったように、未来も確かに「あった」。
未来がすでに「あった」ものなら、未来は変えることは不可能なのだ。

でも、いくつかの未来は明るく輝かしいばかりではない。ルイーズのように、愛する娘の早逝という悲しみも織り込まれていることがある。そもそも、人は必ず死ぬのだから、どこかの将来には必ずすべての生き物の死が、あらかじめ埋めまれているのだ。

人間はどこかのタイミングで必ず身近な人間の死に出会う。

それは理屈の上では自明のことなのに、死に直面し、遺される人間にとって、こんなに辛い経験はない。

個人的なことだが、5年ほど前に夫を亡くした。突然の病気の発覚で、あっけないほど短い闘病だった。努力はことごとく実を結ばず、体の機能はすべての期待を裏切って加速度的に壊れていった。
外は日差しが降り注ぎ、昨日と地続きの平和な世界だったけれど、世界で自分一人が打ちのめされていた。この世に、ひとりぼっちになってしまったと思った。

喪失感を埋めるにはどうしたらいいのだろうと教会に行ったりグリーフケアのグループの活動を見たりした。でも、なにも自分の胸に開いた風穴を塞いでくれない。
「死ぬ」ってどういうことだろう、と問い続けた5年だった。

人はどうせいつかは死ぬ。でも、どうせ死ぬのだから、生まれないほうがいいだろうか。生まれても虚しいだろうか。死んだら、それはその人の「終わり」なのだろうか。
やがて私の問いかけは、冒頭のルイーズのつぶやきと結論に重なる。

どうせ読み終わってしまうのだから本は読まない、という考え方があるだろうか。本は、読み終えたら消えてしまうのか。そうではない。感動したことばも、物語も、本の中にちゃんと生きていて、読者に影響を与え続けている。
忘れがたく、語り継がれ、歴史に残る1日というものもある。
「シェル」が現れた日のように。

人も、死んでしまったら、生きていたことはないことにされるのか。そうではない。
自分にとって、かけがえのなかった日々や会話や、できごとは、人生の最後の日とともに消え果てるようなものではないのだ。彼が死に、私が死んでも、その思い出は娘の中に生きる。友人の中に、あるいはふと触れ合った人の中に、生きることもあるだろう。
それを終わりとは、言わないのではないだろうか。

「ありありとわかっていながら変えることができない未来」という設定によって避けることのできない死の受容を強調し、始まりがあり終わりがあるという直線型の時間の考え方から解き放たれることによって、死の断絶感をやわらげる方法を提示した作品、それが、少なくとも私にとっての『メッセージ(原作題:Story of your life)』だった。

きっとこの作品を生み出したテッド・チャンも、小説よりもはるかにわかりやすく噛み砕いて、言葉に宿る英知と、対話の重要性と、そして時間と人生の捉え方を提示してくれたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督も、乗り越えがたい悲しみがあり、考え続けた日々があった人ではないだろうか。