Friday, January 20, 2017

ブラインドマッサージ(推拿/Blind Massage) 2014


      (画像:https://www.asiafull.com/blind-massage-2014/)


幼少期の事故で失明、全盲となったことに絶望し、割った丼のかけらで首を切って自殺を図ったこともある端正な顔立ちの青年、小馬。
盲人たちの働くマッサージ院で働き始めるが、新入りのカップルの女性に横恋慕して初めての性衝動を抑えられず、先輩に風俗店に連れられて行き、そこで働く女性マンと出会う。マンの客と揉め、ガラス戸に突っ込むようにして倒れ込んだ衝撃で部分的に視力が回復するが、小馬はそれを誰にも告げず、マンと駆け落ちして行方知れずとなる。
時が経ち、カメラは手書きの粗末な看板を捉える。小馬按摩店。やがて白杖を持つ青年が現れ、後ろ姿を追うと粗末なアパートの一室に構えた按摩店と、その前の外廊下で洗面器の冷たい水で髪を洗う質素な服装のマンの姿が映される。マンの姿は小馬の限られた視力を通して示されるので、周囲はぼやけ、はっきり見えるのは視界の中心のマンの顔だけである。しかし、それで十分なのだ。心から見たかった愛しい人の美しい顔が、今は見られる。これしか見たくないし、これさえ見られればいい。だから小馬は目の前にいるマンにそれ以上近づくことも声をかけることも抱きしめることもなく、見たいものが見える幸せをいつまでも噛みしめるように、心から幸せそうに微笑んでいる。

小馬の物語はこんな具合だ。しかし、見えない世界から出て「見える」ようになる幸運な奇跡に見舞われる者はほとんどいない。

作品はひとつのマッサージ院に身を寄せ、もがき奮闘する男女の群像劇になっている。
そのなかに、とりわけその身の哀れが切なく胸にせまる人物がいる。マッサージ院の共同経営者の1人、沙復明だ。

多彩な趣味を持ち、経営者としてそれなりの資産も持っている彼は穏やかで明るい。だが独身で見合いを繰り返している。
1歳で失明した彼はほとんど先天性の全盲のように見えないことが普通で、そのことに特に葛藤を感じなかったという。
しかし、その彼の穏やかな日々に変化が訪れる。マッサージ店で働く都紅が、客から口々に美人だと褒められるのを聞くうち、美とはなんなのか、どういう状態を美しいと言うのか、自分には想像できない「美」という概念に囚われるようになり、それが都紅への恋慕になっていく。

しかし都紅は小馬に惹かれており、自分には関心を持ってもらえない。都紅は偶発的な事故でマッサージ師にとっては生命線である手が不自由になり、盲人ならではのプライドから復明の援助を断って姿を消す。
復明は気の毒なほど憔悴し、血を吐いて倒れる。院は解散となり、皆それぞれの道を歩き出すことになる。

作品は小馬の事故のエピソードで始まり小馬の笑顔で終わるため、小馬が物語の中心のようにも見えるけれど、作品の主題は断然、復明の「どうしても果たしたいことがどうしても果たせない」哀れさにあると思う。

復明の恋は叶わず、それなら経済的援助をという親切心さえ果たさせてはもらえない。その失恋だけでも痛々しいが、その下に、もっともっと深く、本人さえも気づかないか、気づいた途端に蓋をしてきた希望と絶望が潜んでいる気配がするのだ。

それは、「見たい」、という希望、それが絶対に叶わないという絶望だ。

神以外には誰にもどうしてやることもできない、一生叶わず、叶わない事実と向き合い続けなければならないという切なすぎる事実。
それを呼び覚ましたのが、「見えない人間には理解することができない」全く未知の「(外見の)美」という概念だったのだろう。

復明自身、どれだけ自分が見えるようになりたいと思っているか、その願望の強さに気づいていたかどうか、わからない。
作中で二度ほど彼は「みんな揃っているから写真を撮ろう」と言って記念写真を撮ろうとする。写真とは、その瞬間を記録して、のちに見返すためのものだろう。でも彼らには撮った写真を見る機会はない。なんのために写真を撮るのだろうと疑問だったけれど、おそらく彼らにとって集合写真を撮ることは、晴眼者とは違う意味合いを持っているのだろう。見ることはできない。でも晴眼者たちはこうやって写真を撮る。みんなで集まって、一斉に笑う。いいじゃないか、みんなで集まって、一緒に笑って結束を確かめ合おう…

復明は知らず知らずのうちに、見える人間たちの世界をなぞり続けていたのかもしれない。彼らはダンスをする。よし、踊ろう。彼らは詩を書く。よし、書いてみよう。彼らは結婚している。僕も結婚しよう。というふうに。

復明の切なさや哀れさが胸を打つのは、盲人でなくても、みんなそれぞれ生きていく中で、「どうしても不可能なこと」を抱えて、折り合いをつけながら生きているからだろう。
復明と同じく、それはあまりに不可能な夢でありすぎて、普段は押し殺して生きているかもしれない。でも、ふとそれが浮かび上がって来た時、どうしようもない無力感に襲われる。
復明の絶望の中に、自分の絶望を思い出してしまうのだと思う。

盲人ゆえに細やかに気づく音や気配、それらが生む緊張、朗らかに支え合うたくましさ、倒れた復明を抱きかかえ、必死でタクシーを呼び止める仲間同士の絆の強さなど、盲人たちならではの日々が生き生きと描写されているこの作品から、ありがちな主題だけを拾い上げて矮小化したくはないが、復明の葛藤や切なさにはどんな人でもちくりと胸を刺される普遍性があるのではないかと思う。

想いを寄せる女性が、自分の存在に気づかないままかたわらの別の男性に想いを告げる…盲人ならではの残酷なシチュエーションにも、拳を固め身を縮めて息を殺すだけの復明。

生まれ変わったら木になりたいと自作の詩を呟きながら、彼の「木」は「半分は地中に埋まり半分は風にそよぐもの」であって、形も色もないのだ。

そっと近よって手を握り、温かさを伝えてやれる人はいないのか…。そんな気持ちにさせる人物像を、秦昊が見事に演じていたと思う。