Thursday, September 22, 2016

怒り (RAGE) 2016




画像:https://festivalreviews.org/2016/09/11/tiff-2016-movie-review-rage-ikari-anger-japan-2016-top-10/


一見して、整形を繰り返し長期間の逃亡に成功した実在の殺人犯、市橋達也をモデルにしたとわかる犯人が、この作品では夫婦を惨殺して、逃げている。ただし、作品中には彼にそっくりな「鋭い一重まぶた」の痩せ型の青年が、一人ではなく三人登場する。

一人は、エリートサラリーマンのゲイに拾われるように誘われ、同棲を始める同性愛者、ナオト。一人は、千葉の漁港で正社員になることを固辞してバイトを続ける青年、田代。そしてもう一人は、沖縄の無人島の廃墟に住み着いたバックパッカー、田中。彼らは一様に、過去も身元もはっきりしない。あまり表に出ることなくひっそりと生きている。

繰り返し画面に映る、三人の誰にも見える手配写真を見ながら、観客は誰が犯人なのかを考える。犯人の特徴である頬に3つ並んだホクロを持つナオト、名前を呼ばれると飛び上がるほど驚く田中、偽名を使っていたことがわかった田代。誰もが疑わしくみえるようにストーリーは進んでいく。

作品の最もエモーショナルな部分を支えるのは、彼らと、彼らを愛し信頼する人々との間で厳しく試される「信じる」ということ。「信じる」、確信、信頼という堅固な言葉とは裏腹に、本当に人を信じることはあまりにも難しく、信じているという確信はあまりにも脆い。
ナオトの死を告げる警察からの電話に、殺人犯との関わりや同性愛者であることが知れるのではないかと恐れ、ナオトを「知らない」と言ってしまう優馬。「信じてくれてありがとう」と言っていたナオトを、裏切った自分への悔恨。
「愛子にだけは本当のことを言う」と告げられた田代の過去を信じられず、警察に通報してしまった自分の弱さへの慟哭。
「信じると言いながら信じきれなかった」のがこの二組の物語なら、「信じていたのに裏切られた」のが最後に残った田中と、彼を慕っていたタツヤといずみの辛い物語だ。

「信じる」と言う覚悟の甘さ、信じることの難しさや脆さ。それは俳優たちの熱演が十分に伝えていると思う。
問題は、この作品のテーマは、「怒り」だということだ。

発端となる殺人現場には、ドアに血糊で大きく書かれた「怒」という文字が残されている。これはどういう意味なんでしょう、犯人はなにに怒っていたんでしょうねと若い警官は訝る。

ここが、惜しいところだと思うのだか、なぜなにに怒っていたかは、「建設現場で一時犯人と一緒にいたことがある」窃盗犯の「推測」の「言葉」で「解説」される。

これが本当にもったいない。

大切なテーマなのに、小説ではなく映画なのに、なぜ言葉(セリフ)で説明させるのか、と過去の同監督作品である『悪人』でも思った。途中まで本当に見応えがあり、今回同様俳優は凄みさえ感じる熱演だったので本当に気が抜けた。
今回も、「たまたま逮捕した窃盗犯」がたかが一時的に同じ現場にいただけで、事件の核心や動機を語り始めたのでちょっとがっかりしてしまった

しかもそれは「推測」なので、正しいとも限らないという逃げまである。
それが説得力のある、「これは怒りを爆発させて当然だ」と納得のできる動機ならともかく、「猛暑の中、現場と指示されて行ったはずが勘違いであり、せせら笑われてなにもかもいやになって家の前に座っていたら帰宅した女性に冷たい茶を振る舞われて見下されたとカッとした」というのは、一生懸命想像力を総動員しても、無理やり納得しろと言い聞かせなければ犯人の心情に寄り添えない
平板な言葉で説明するのではなく、たとえば田中の家の、あのただの雑然や混沌とは違う独特の部屋の様子、空き缶やカップヌードルの空き容器を収集物のように整然と並べ、些細なニュースへの感想や不満をいちいち紙に書いて窓にびっしり貼り付ける、あの不気味な偏執気質で、小さな怒りを溜めに溜めて痩せた体の内側が今にも爆発しそうなほど怒りでぱんぱんになっていく様子を、きっとあの映像なら、あの俳優なら、あの監督なら、描けたのではないかと思う。それが残念な気がする。

沖縄での彼の突然の怒りの爆発も、分かりにくい。いずみちゃんを強姦した米兵、それを止められなかった自分に対する怒りならまだわかると思っていたけれど、(それが本気なのかどうかも不明だが)面白がって見物していたのだと言うし、ならば何に対する怒り?途中で見物を邪魔されたから?えええ?となってしまって、やはりこれも「一生懸命辻褄を合わせている」途上だ。

「怒り」の話は、犯人の田中が沖縄にいたことで、沖縄での物語に集中している。
蹂躙されたいずみちゃんの、ぶつけようがない「ぶつけてもどうせどうしようもないんでしょう」と内に溜め込むしかない怒り。「ムカつくとかそういうんじゃなくて、本当に心の底から怒っていることを相手に伝えるにはどうしたらいいんだろうな」と言っていたタツヤの、信じていた田中に裏切られ、いずみを笑い者にしたことに対する怒りは、殺人に向かってしまう。

穿った見方すぎるかなと思いつつ、田中はタツヤの怒りを解放するために、わざと自分を殺させるように持って行ったのかなとさえ考えてみたが、それでは直前に3つのホクロを切除しようとしていたことの説明がつかない。

とにかく、物語がテーマである「怒り」に集約されて、納得が深まるべきラストに向かって、どんどんと混沌とするのだ。

さらに言えば、作者や監督が「怒り」というものを肯定しているのか否定しているのか。怒るな!と言っているのかもっと怒れ!と言っているのかもわからない。沖縄の基地返還デモさえ描かれる。これはどうしたって「ぶつけても仕方ないかもしれないけれど伝えずにはいられない怒り」の象徴だ。しかし、田中の自分勝手な怒りは、どんなに恵まれない境遇や社会システムの不備を反映しているなどのエクスキューズを積み上げようが、なんの関係もない夫婦二人の命を無残に奪っているのだ。

いやいや。それは考えすぎで欲張りだ。単に「現代のいろんな怒りを多角的に描いてみました。どの怒りも悲劇的で理不尽ですね」的な作品なのだろう。

でも、だとすると正直やっぱり、すこし物足りない。

信頼を寄せていた田中に裏切られ、同じく信頼していたタツヤは罪を犯して去り、一人残ったいずみは、ラストシーンで怒りを解き放つ。
いずみが、これからどうするのかはわからない。誰にも言わず黙って耐えることを止め、怒りをぶつける決意をしたのか、またはなにもできず、信頼も友人も失ってしまった理不尽に対してその場の怒りをぶつけているだけなのか。

それでもいずみの若さは、彼女を囲む海は、全てを受け止めて消化して力強く前に進んでいけるように見えて、それは本当に救いだった。