Tuesday, May 15, 2018

From a flying theater


                             画像:http://digibibo.com/blog-entry-1847.html


NYに行った。
四半世紀ぶりに。
行き帰りの飛行機は、何しろ飛行時間が12時間もあるので、寝なくちゃと思いつつついつい機内エンターテインメントで用意されている映画を鑑賞。

さらに、とってもひまなので感想もつらつらメモ。

もう3か月近く前のメモなんだけど、スマホの中にひっそり残ってた。
というわけでただの駄文だけど、こっそり「放流」します。


 『三度目の殺人』。
もちろんいろいろ端折られているのだろうけれども、映画に描かれた部分だけが裁判だとすると、もうぜつぼうしかない。
全ては被告人の自白と証人の証言で進行し、これはどう考えても判決を左右する大切な証拠になるからエビデンスを集めるなり裏を取ってこなきゃいけないだろうと思う重要な証言が数々出てきても、誰もそういう行動を取らない。
だから被告人が自白をコロコロ変えるだけで弁護人全員が引きずられて翻弄されてしまい、さいごまで真相は十分に明らかにならないのに死刑が宣告されてしまい、その判決に誰も憤るでもない。

本当にこんなだったらどうしよう。こんなの裁判じゃないだろう。もう絶対どんな形でも日本の裁判に関わっちゃダメだと決心するほどお粗末な裁判だった。

無実で冤罪かもしれないのに、みんなで寄ってたかって「戦略」上有利だとか裁判の進行の方を真実の解明や冤罪を防ぐことより優先してるのも到底納得できない。

だいたい、役所広司演ずる被告が広瀬すずちゃん演じる被害者の娘を「守る」ために嘘をついた、というのがいい話っぽく描かれているけれど、すずちゃん自身は「隠さなければいけなかった今までの方がずっと辛かった、証言します」と言っているのに。
福山雅治も彼女を「守る」ためにとでもいうのか、そんなことをしたらひどい目にあうよと止めるのだが、あれは「脅し」だし、日本の世間も正義も彼女が絶望してきた「見ないふり」の母親の態度とまるっきり同じ、その仕組みに屈服しろと言っているに等しい。
いい話どころかぜつぼう。しかも「守る」ための言葉とはいえ「あの子は嘘ばっかりついてる子ですよ」と言われ、嘘つきの汚名を着せられながら守られるというのも屈辱でしかないのではないのか。

まあ、実際に日本はこんなものだとしたら作品の世界だけユートピアにするわけにもいかないのでこういう作品にしかなり得ないかもしれないけど、だとしたらなお一層怖いじゃないですか。

役所広司は一見礼儀正しく穏やかでありながら凶悪な殺人を犯してしまう、とらえどころのない「空の容器」のような犯人像を大変うまく演じていたし、広瀬すずちゃんの進化も素晴らしく、揺るぎない決心がこんなふうに演じられるくらい成長してるんだなあ、と感心したけど、いったいこの映画は「裁判も弁護士も警察もあほで屑で、そんな仕組みをどうしようもできない日本社会に蹂躙されるのは結局一番弱い立場のオンナコドモなんだがっくり」と「告発」している映画としてそうだそうだと賛同していいのか、「三度目」は自らを殺してまで娘のようなすずちゃんを守った男の話、としてそりゃあ到底納得できないと「全否定」していい作品なのか、そこがぜんぜん判断つかないのが一番もやもやした。

いや、ちゃんと明確でしたよと言われるのかもしれないけど。読解力不足と言われればそれまでだけど。

判断を投げ出せばいいというものではない。

一見どうとらえればいいのかな、というつくりになっていても、そこが明確な作品はたくさんある。というか、にじみ出てくるものが必ずある。

どっちにもっていきたい映画なのかというのはとても重要なことなのに、ものすごくどっちつかずというか、答えを出さずに投げ出して「あなたはどう思いますか?」って煙草でもふかすのがかっこいいってのは妙に古臭い感じがするんだよな。


『ジャコメッティ 最後の肖像』。
アミハマちゃんことアーミー・ハマーの美しい顔をこれでもかと見られる作品なので、劇場で見たかったけど見逃していたもの。
ほんの2~3時間のはずの絵のモデルが来る日も来る日も終わらない、という、言ってみればそれだけの話。今度こそ完成かと思うと大筆に灰色の絵の具をつけてほとんどを塗りつぶしてしまい、 また一から細筆で書き直してしまうのだ。
最終的にアミハマちゃんのとった「作戦」が、「人生は必ずハッピーエンド、もしハッピーじゃなかったらそれはまだおわっていないから」というインド映画でよく聞く素敵なセリフの「逆」を行く方法なのが興味深かった。

長い長い人生、「完成」を追い求めてしまったらいつまでも何も完成しないのかもしれない。完成は未完成の一形態なのだな、それでいいのだな、と思ったりした。


 『ローガン・ラッキー』。
よくあるアイデア満載の強盗もので、まあこんなにうまく(ラッキーに)はいかないでしょう、って話だけど、『キングスマンGC』以来カントリーロードが流れると自動的に泣く体質になってるのでワインも入っていたためこの曲が歌われるところでさめざめと泣いてしまった(笑)。

個人的にはやっぱりアダム・ドライバーの「新しい義手」がツボ!

帰りは『サバービコン』(ネタバレ)。
郊外の理想的・画一的な白人中流階級の住宅地、サバービコンに、ある日黒人一家が移り住んで来る。
彼らが黒人だというだけで、そこに住んでいるというだけで、被害者意識を増大させ、その実暴力的な加害者になっていく住民たち。
なにも悪いことをするわけでもない黒人一家に勝手に危機感を強め、暴動まで起こすかたわらでは「理想的な白人中流家庭」であるはずのマット・デイモン、ジュリアン・ムーア夫妻の家庭で凄惨な殺人事件が起こっているのに、誰も気づきさえしないという強烈なブラックユーモアのある作品。

日本にも似たような人たちがいて似たようなことをしているよなあ

でも、日本の作品にはこんなふうに寝静まった倫理観をぴりりと叩き起こそうとするような強烈な方向性を見いだせない。

ひどい世の中ですよね、と言いっぱなしか、またはまったく違う方向を見て(無視を決め込んで)ほんわかしようと逃走するか。

これだよこれ、日本の作り手に欠けているものはここにもあったよね、という作品かもしれない。