画像出典:http://www.imdb.com/title/tt5580390/mediaviewer/rm443309568
完璧な作品だったと思う。第90回米アカデミー賞作品賞も納得の。
水をテーマにしたブルーグリーンの画面の美しさ。そこに灯る明かりのようにくっきりと映えるイライザの赤い靴。ノスタルジックな舞台設定。映画の歴史への敬意。国家を敵に回そうとも、言葉のない、いや言葉を超えたふたりだからこそ結ばれる強い絆。種の違いなど歯牙にもかけず。
そして恋の力は人間だったイライザを愛する彼と同じ種族に変え、ふたりはいついつまでも幸せに暮らしましたとさ、happily ever after…。
アンデルセンの『人魚姫』では、言葉を差し出す代わりに足をもらって人間となった人魚のお姫様が、美しい人間の王子と結ばれることを夢見る。デルトロ版『人魚姫』とも見えるこの作品で言葉を失ったイライザが結ばれたのは、人間の王子ではなかった。(『美女と野獣』の野獣のように魔法が解けて人間に戻ることなく)最後まで異形のままの半魚人だった。海の泡となって消えていくアンデルセンの人魚姫と違い、力強く幸せを引き寄せたイライザは、自分と同類の王子を得たわけだ。そして自分の声を奪った首の傷はエラとなり、水中で呼吸できる「元の」人魚の姿に還る。
『人魚姫』よりも『美女と野獣』よりも強い恋の物語!
こんな話、好きでないはずがない。
なのに、あろうことか終映後、どうにも置いてけぼりをくらった感触がごまかせない。
少しショックで、悔しくて、人には言わないでおこうと思いながら椅子から立ち上がり、とぼとぼ帰ったことだった。
それからずっと、自分が「乗れなかった」理由を、記憶を巻き戻して考えていた。
というわけでこれは罪滅ぼしの「シェイプ・オブ・ウォーターに乗れなかった理由の考察」だ。
思い当たる「置いてけぼり感」のポイントは、実はこの映画で最も感嘆した場面でもある。
それはイライザがバスルームを水で満たし、窮屈なバスタブの中ではなく自由に手足が伸ばせる水中で半魚人の彼と踊るように抱き合った後の場面だ。
ジャイルズがドアを開けて水を抜くと、悪びれることなく床に立って彼と抱き合う姿を見せるイライザ。その顔は誇らしげと言えるほど完璧な幸福感で満ち足りていて、彼女の笑顔を美しいと思うと同時に、どうにも置いていかれた感覚を味わった。そう、ここだ。
おそらく人間の男性との恋の経験は多くはないであろうイライザが、人間の代替としての半魚人でもよしとするのでは断じてなく、彼女が紛れもなく世界で最も愛する存在から愛を勝ち得た表情を見せた時、わたしはその「揺るぎなさ」に「置いていかれた」のかもしれない。
心の底の方で、なにかが小声でこういうのが聞こえてしまったのだ。
だって、魚でしょう?
デルトロ監督が主人公の恋の相手を異形のもの(最後まで人間の姿になることもない)にしたのはなぜか。異種異形のものというのは、見るものが無意識のうちに持っている偏見をあぶり出してしまうのだ。
作品中には異種のものに異種であるというだけで素朴な嫌悪感を露わにする人物が多く登場する。出自や容貌にこだわりやコンプレックスを抱く人物、ある程度以上の年齢の人物を簡単にお払い箱にする組織などもあいまって、LGBTQ差別、人種差別、容貌差別、年齢差別、障害者差別に職業差別と、差別と偏見のショーケースのようになっている。それは現実の縮図でもある。
普段、自分はそんな偏見は持っていないと思いながら生きている人間が大半だろうが、実は自分たちもあのカフェのウェイターと同じく、屈託なく善意のまま偏見をふりまいているのかもしれない。
「いやいや、わたしは彼が黒人だから差別しているのではない、彼が横暴だから嫌いなだけだ」などという言い訳は何万通りも繰り出されるだろうが、赤いゼリーを緑に描き変えようと、ゼリーがゼリーである限り受け入れないのが本音なのだ。
冷たくて鱗があってヌメヌメと濡れているものと抱き合うのは気持ち悪くない?肌を重ねると鱗やギザギザのヒレが引っかかるのではない?顔を近づけると(彼は半魚人史上最高のハンサムだけど)、首筋でエラがパクパクしているのってどう?それに、…たぶん彼は川の匂いがするよね?
保護ならいいのよ、同情とか。でも、恋愛は…。
私の全神経がイライザの幸福感に共感する一方、湧き上がるそんな小声を抑えきれない。
そして、自分の生理的嫌悪より、実はもっと怖いことがある。
きっと周り中から言われるはずなのだ。
ええ?彼は魚でしょう?気は確か?と。わたしは一瞬のうちに、多分そこまで考えて、ひるんでしまったんだと思う。
胸の奥でチクリと何かが痛んだのは、異種を問答無用に嫌悪する自分が見つかったこと、そしてそれ以上に、常に周りの目や評価に価値観の根幹さえ揺さぶられかねない、情けなく醜い自分を発見したからだったかもしれない。
それにひきかえ、イライザは揺るぎない。
かけらの迷いもなく彼を愛しているし、そんなにも愛している彼と会えなくなっても、やはり彼を水中に帰す決意もしている。
どうして、そんなに強いのだろう?
その強さゆえにこの異種間の恋は成立するのだけれど、同時に心の弱さをあぶり出されてひるむわたしのような人間もいるのかもしれない。まあ、イライザほどの恋はめったにできまい。なにしろ相手は結局は「神」なのだから…。
ただ、このふたりの恋が孤立していないところが、作品の優しさであり、ファンタジーらしい部分でもあると思う。
現実は差別や偏見でよどんだ濁り水かもしれなくても、監督はイライザのまわりに彼女の恋を全力で応援するジャイルズやゼルダを配置してくれた。彼らがいるおかげで、この恋は悲劇で終わらずにすんだのだ。
どうやらわたしは立ち位置を間違えていたのかもしれない。むりやり強いイライザに共感しようとして失敗したのかもしれない。イライザにはなれなくても、ジャイルズやゼルダになれれば、誰かの恋の後押しくらいはできる。この作品の語り部がジャイルズであるように、せめて恋の幸福感や昂揚感を讃えられる人間でいたい、私も。
Unable to perceive the shape of You,
I find You all around me.
Your presence fills my eyes with Your love,
It humbles my heart, For You are everywhere...
あなたの輪郭はつかめない
あなたはわたしのまわりじゅうに満ちているから
あなたがいるとわたしの視界は愛でいっぱいで
身に余る幸福に畏れ多くなる
見渡す限りあなただから…
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ところでこの作品では敵役ストリックランドが半魚人に指を食いちぎられるのだが、映画の少し前に見た別の人魚映画『ゆれる人魚』(こちらは100%置いていかれることなく好きな世界観に浸れる映画だった!)にも、人魚の姉妹が雇われるクラブの主人が人魚に指を食いちぎられる場面が出てくる。さらには、『スリービルボード』にも歯医者が主人公ミルドレッドに指に穴を開けられる場面が出て来た。
指、ってなにかあるのかしらね?
と朝食を食べながら横にいる娘に聞くと、
指は真情を語るもの=言葉ということじゃない?
Frozenのエルサが手袋で覆い隠し封じ込めるもの、イライザが心を語るもの。
指を奪うのは黙ってろということでは?
そしてストリックランドはその指が腐ってる…
と言って、仕事に行ってしまった。
なるほど、それはたしかにあるかもしれない、と思いながらわたしも朝食を片付けて、今日も差別と偏見で濁る水中のような世の中に、弱虫のまま出かけて行く。