Tuesday, November 3, 2015

紙の月⚫︎ 角田光代 (ハルキ文庫)2014

画像: http://eiga.com/movie/79885/gallery/5/

映画『紙の月』のラスト、東南アジアの街角で子どもの頃募金を送っていた少年にわざわざ「再会」させる意味を知りたくて、原作を読んでみた。

驚いたことに、小説には映画であんなに印象的だったそのラストシーンもなければ、息詰まる横領発覚後のより子と梨花のやりとりも、その後の逃亡、疾走に至る一連の行動も、だからもちろんどこまでも走り続ける梨花の姿も、なんにも、まったく、ないのだった。

小説では梨花の友人のエピソードや、正文との結婚生活、梨花が横領を繰り返し、抜け出せなくなるさまなどが、より丁寧に書き込まれていて苦しくなるほどの説得力があるけれど、登場人物を変え、人数も絞り込み、ほとんど「もう1つの『紙の月』に作り変えた」と言ってもいいほどの映画版でも、たしかにエッセンスはまったく共通していると感じた。
いやあ、すごいものだな、映画って。

文庫版の巻末の解説は映画版の吉田大八監督で、監督がいかにこのストーリーを咀嚼し、自分のフィルターになんどもかけなおし、どこを中心テーマに持って行ったかが大変よくわかる「解説」になっていた。脚本は早船歌江子さん。この脚本で第38回日本アカデミー賞優秀脚本賞受賞、というのはあまりにも真っ当。素晴らしい脚本だなあー。

結局、幻の『紙の月』(原作には三日月を指で消すというエピソードも、ない)に幻惑されたように「自由だと思った」梨花は、その自由で何を求めたのか。月は虚栄心が見せる美化しすぎた自分の象徴か。その月が「紙」なのは、金という紙が見せた幻だからか。自由になるどころか実際は底なしの沼に落ち込んでいくような梨花の物語は、なにを提示しているのか。
それはまだ、わたしには朝の空の月のようにおぼろげで掴めない。

所詮人間は自分のアイデンティティという檻の中でしか生きていけない。なぜならそれが自分を自分の形にしている「輪郭」だから、輪郭を失うと液体のように自分が流れ出てしまうからなのだけれど、「とても自分らしくないこと」をしでかしたとき、一瞬、「逃れられるはずのない檻を破った」ような錯覚におちいり、全能感を得るのかもしれない。
「アイデンティティ」そのものをなくしてしまうことには、アイデンティティという逃れようもないものから逃れたという「してやったり感」というか、恍惚感があるかもしれない。
だから、その「アイデンティティがないような」錯覚に酔っていられるタイ放浪期、梨花はもっとも全能感を感じている気がする。しかし、最終的にはビザなし滞在期間すら超えられず、まさにそのパスポートという「ID」によって追い詰められる梨花の結末は、「自分は自分であって自分を飛び出すことはできない」、人間一人残らず自分という檻に囚われて終わる、という当然の宿命を見事に象徴しているのかもしれない。

でもこの小説が、「どんなにつまらなくても身の程をわきまえて生きよ」と訴えているのかというと、逆なのかもしれないとも思う。

みんないい子で自分を突き破らないように上手にブレーキを踏んで暮らしている。でも、世界には、平凡に見えるあちこちの暮らしに、どうしてもアクセルを踏み込んで越えてはいけないボーダーをフルスロットルでつき破りたい衝動が埋め込まれているのよ、それだけ閉塞感に満ちているのよ、と、言われているようにも感じる。

小説の大きな柱は主人公梨花の横領だ。
紙の現金しかなければ手元に現物がなくなれば終わりだったのだが、いまはカードや消費者金融が、どこまでも続く幻の資金を提供してくれるかに見えてしまい、自分の財力と幻の境目を見失いがちになる。梨花のように、顧客の金と自分の金の境目がなくなってしまうと、さらに一見どこまでも金が尽きないように錯覚してしまう。そして財力は文字通り強い「力」だ。その力で、「自分」を突き抜ける「檻抜け」ができると錯覚を起こさせるかもしれない。

梨花と正文は一見どこにでもいそうな夫婦だし、きっと外からは大きな問題があるようには見えない。けれど、二人の関係、とくに梨花にとって正文がいかに浅薄なプライドの持ち主であるか、そのために梨花の自尊心を踏みにじり、存在意義を軽んじていることにいかに無自覚かを、角田光代さんは執拗に描写していて、読んでいて梨花と同調してしまい苦しいほど。
梨花の同級生だった岡崎木綿子、友人だった中條亜紀、短期間付き合った山田和貴とその妻牧子などの登場人物は、微妙に梨花、正文、光太と職業や境遇が重なり、梨花らの「選ばなかった選択肢」を選んだ場合の「こうではなかったバージョンの梨花、正文」を見せているのかもしれない(彼女たちは、夫の収入内でやりくりする専業主婦、編集プロダクションのスタッフから転職した出版社の正社員、裕福な子供時代の記憶がある者、食品会社の社員…である)
でも、全員残らずあまり幸せな結末に至っていない。「途中でどの選択肢を選んだところで、破綻からは逃れられなかった」ということが提示されているのか。いや、これら登場人物はわかりやすいサンプルであるだけで、しょせん現実の自分もまわりの人間も、一歩間違えば梨花、という人間だらけなのだろう。

梨花は、1億円「貢ぐ」ほどには光太を好きでもなさそうに見えるし、服やエステや化粧品を際限なく買い込んでいても、それで金額ほどの充足感を感じているようではない。最初の一口でほんのり幸福感を味あわせてくれる酒が、深酒どころか依存症になり、やがて人格も生活も破壊するのと全く同じ。途中からは「依存症」以外の何物でもない様子が描かれる。
横領のような犯罪が、最初の一歩を踏み出したら最後、抜けられない状況になりがちなのはわかる。でも、梨花はなぜこんな境遇にまで落ちる必要があったのか。
いや、これは「落ちている」のだろうか?
少なくとも、「自分が肩書きだけの一部でしかない」(そしてそれ以外の部分は混沌としている)状態ではなく、これが自分の全体、生まれた時からのすべての要素が導いた自分そのもの」というintegrityを手にしたのなら、むしろ成功なのだろうか。

光太も、すべて満たされた生活から結局は「出してくれ」と懇願し、梨花も全能感を感じるとうそぶきながらも自分のIDを破れない逃亡生活から「連れ出してくれ」と最後には懇願する。

結局は戻る場所に戻るしかない。

だから、達観して自分の檻の中で囚われて生きよう、なのか。角田さんは「だからどうしろ」は自分で考えて、と突き放すのかもしれないけれど、すぐには答えを掴みかねる読後感だった。

もちろん、そんなにすぐ答えが見つかるなら、こんなに長く迷いながら生きる必要もないのだろうけれど。