Wednesday, August 28, 2019

ブラッケン・ムーア(Bracken Moor)2019

           画像:https://entertainmentstation.jp/502763



       [ネタバレを含みます]


アレクシ・ケイ・キャンベル脚本『ブラッケンムーア』(東京公演8/14-27、シアタークリエ)は、思いがけず、もう一回、もう一回と結局三度も観劇に足を運ぶことになった味わいの深い舞台だった。

1930年代のヨークシャー。斜陽産業となった石炭産業には急速な機械化の兆しがみられ、大量の失業者を生んでいる。ヒトラーが台頭し、政治情勢の変化も急を告げている。しかし鉱山の持ち主で経営者のプリチャード氏は経費節減のために労働者から職を奪うことを世界を救うために必要な犠牲と言い放ち、すでに困窮を極めている彼らの生活を支えることには興味がない。
そこに、家族ぐるみの友人であるジェフリー・エイブリー氏と妻バネッサ、息子テレンスが10年ぶりにやってくる。友情の途切れた10年。それはテレンスと同い年の親友だったプリチャード家の一人息子エドガーが痛ましい事故により12歳で急死を遂げたことによってもたらされたものだった。テレンスは22歳となり、美しく才気煥発な青年に成長している。しかし、招かれた家の当主であるハロルドに対しむやみに挑戦的にも見える。
息子の死に衝撃を受け10年間屋敷に閉じこもったままの母エリザベスはテレンスとの再会を喜ぶが、感情は凍りついたまま。死の訪れだけを待ちながら「仕方なく生きてきたの」と話す。

やがて物語は急展開する。エドガーの部屋で就寝していたテレンスは悪夢にうなされて叫び声をあげて目覚め、自分の声におののいて居間に降りてくる。エリザベスとエドガーの間だけの思い出の言葉が、なにも知らないはずのテレンスの口からこぼれ、エドガーの霊が取り憑いたような奇妙な行動に凍りつく2家族。やがて、12歳のエドガーのような口調でテレンスは自分が事故死したブラッケン・ムーアに連れていけと言う。なにがあったのか教えてあげようと…。

まるで死の瞬間を再現するようにエドガーが落ちた鉱山の縦穴に落ち、泥の中をのたうつテレンスを助け上げた家族はなんとか帰宅するが、テレンスはその後も床を転げ回り、死が迫る中助けにきてくれない両親を呼び続ける。やがてふと立ち上がって母を呼ぶと、探してくれていたのは知っている、今も探していることも知っているがもうやめてほしい、と優しく語りかける。
「死ぬことは生まれること。ぼくは生あるもののすべて。ぼくはいのち」
エリザベスは彼を抱きしめながら、長年抱えてきた思いを解き放つように泣き声を漏らす。

翌朝、「憑きものが落ちた」ように晴れやかな顔で目覚めたテレンスは、ハロルドに「告白することがある」と言う。エドガーの部屋で死の当日まで記された日記を見つけたと。そこには「母子だけが知っていたはずの言葉」も書かれていた。
騙されたと怒るハロルド。しかしエリザベスはそれが「芝居」だと知ってなお、テレンスのたぐいまれな才能を讃え、ハロルドの価値観に合わせ、ハロルドの庇護と経済的豊かさの中で目を瞑って生きてきた今までの生活を捨てると宣言して家を出る。
一人残されたハロルドは初めてエドガーの名を呼びながら慟哭し崩れ落ちそうになるが、雇用者の生活より経営の安定を優先する姿勢は改めようとしない。
ふと窓辺のカーテンが揺れ、様子を見に窓辺に立ったハロルドが振り返ると、暗い室内に子供の影がある。12歳のエドガーが泥を被った姿で現れたのだ。エドガーは鋭く父の名を呼ぶ…。

物語はざっとこんな展開。
「霊がとりつく」場面では舞台上が暗くなり青白い光に照らされた上半身裸のテレンスが呆然と立っているなど、いわゆるホラー、恐怖譚なのかなと思って見ていると、実はテレンスの迫真の「芝居」だったという告白があって、物語を全く知らなかったわたしはちょっと驚いた。
テレンスの芝居の意図、そもそも芝居を打とうと決めた理由はなんなのか。そしてまだそれが芝居だと知らず、痛ましい息子の死の再現を見るという普通なら余計に精神をかき乱されそうなことがあった翌朝に今までとは打って変わってすっきりとした表情で現れるエリザベスの心には一体なにが起こったのか。息子の死の真相を知ることと、ハロルドと自分の関係性の見直しにはどんな繋がりがあるのか。そして常に怒ったり断定したりしている独善的なハロルドのあの慟哭の意味は?など、最初の観劇の際には色々な場面が自分の頭の中で滑らかに繋がらず、唐突ささえ感じた。

さらに、劇中では特に答えの提示されない「謎」も埋め込まれているように感じた。エドガーとテレンスは親友だったとしても、「自分以上にぼくのことをわかっている」ほどの親友がそうそういるものだろうか。エリザベスの「エドガーは本当にあなたを愛していた」という言葉には必要以上の熱がこもっていなかっただろうか。その言葉が終わらないうちにハロルドが厳しく大声で「やめなさい」とエリザベスを叱責するのは何故なのか。テレンスは何故自分を「結婚すべき人間かどうか」と言うのか。「男はみんな結婚するものだ」と言うハロルドの言葉に「そうでしょうか」と反応してから、少しだけ「しまった」という顔をするのは何故なのか。幼いエドガーはハロルドに「女の子のような振る舞いはよせ」と言われ、なぜ半日涙ぐむほど傷ついたのか。エリザベスは「エドガーを失った同じ痛みを分かち合えるのはあなただけ」とまでテレンスに言うのだ。
この、「エドガーとテレンスの強すぎる絆」がひとつ。

もうひとつは、芝居を打ったことを告白した際に語られた「芸術家」の話。
テレンスは、オックスフォード大学に入学しながらも大学は退屈だと2年でやめて放浪に出たと言う。そしてアトス島で暮らしていた隠遁僧に会った際、自分の将来像を聞かれ、「いつかは芸術家を名乗りたい」と答えたと。すると僧は「生涯忘れられないことを言った」。すなわち、「世界がなにも信じない人間と何かを信じすぎて盲目的になってしまった人間とに分断される時、両者の間に橋をかけるのがあなたの務めだ」と。
しかし、テレンスのあの芝居がその「橋」なのだろうか。誰が「なにも信じない人間」で誰が「何かを信じすぎて盲目になった人間」なのだろうか。

いろいろと宿題を抱えて、もう2回観劇した。残念ながら全ての謎がすっきり解決したとは言えない。
でも、最初に観たときよりは自分なりに少しは「こういうことかな」という推察はできるようになったかもしれない。

まず、テレンスとエドガーの絆について。これは、やはりただの親友同士と考えるにはあまりにも多くのことが「そうではない」と示唆されているように思う。
二人は、固い友情というよりは、想い合う恋人同士に傾いた関係性だったのだろう。

そして、ふたつめの「芸術家(artist)」というものについて。
これはなかなか難題だ。そもそも「芸術家」、「芸術」とは?という定義から考えなくてはならない。キャンベル氏がこの作品を通じて伝えたかった「芸術」の本質、「芸術家」の働きとはなんなのだろうか。

幸い、公演プログラムにヒントになるインタビューが掲載されていた。
なんと彼は2013年のイギリスでの初演時のインタビューで、次のように語っているのだ。

ーこれは最終的にはなんについて書かれた芝居だと思いますか?
芸術についてだと思います。この戯曲の究極のテーマは芸術であり、テレンスは芸術家なのです。彼はプリチャード家の世界にやってきて、自分が作り出した芸術を通してー変身を通して、演技を通してー新しい概念や新しい生き方を彼らに見せます。そうやって彼らを解放するのです。わたしは今日の世界において芸術家や芸術がより広い役割を担っていることに興味を持っています。特に今は宗教というものが以前ほど大きな役割を演じてはいないからです。演劇のルーツは神秘主義やシャーマニズムと深く結びついていますが、わたしたちはその結びつきを失っている。あるいは忘れてしまっていると思うのです。シャーマン(自然界と超自然界の間を仲介する役割をもった人間)というのはこの戯曲が再評価しようとしているものの一つであり、シャーマンとしての芸術家の力を体現しているのがテレンスです。(後略)

おそらくテレンスは演技者という芸術家であると同時に、「人の痛みをわがことのように感じる力がある」類い稀な人間、つまりシャーマンの素質も実際に持った青年という設定なのだろう。

死というものが喪失であり、固定的な事実であり、不幸であり不可逆であるとするとき、そこには絶望しかない。もしくは、全てを捨て去って、ハロルドのように「前に進むしかない」と割り切るか。
しかしそこに「超自然」が割り込み、受け入れることで、死と生は融合しあい、「あなたの息子」と「わたしの息子」に厳しく分かたれていたものは一つになり、そもそもどの命とどの命の間の壁も取り払われ、命という一つのものになる。「ぼくは、いのち」。

エリザベスが「辛く寂しく痛く苦しい中で死なせてしまった我が子」という観念から解放されるには、おそらくこれしかなかったのだろう。

そうして大きな「壁」が取り払われてみると、すべてを狭い「定義」の箱に入れ、人と人を壁で区切りながらでなければ世界を把握できないハロルドのそばいることは「もうできない」とエリザベスは感じたのだろう。

最後まで壁を取り払うことはできなかったハロルドにしても、やはり彼なりに心からエドガーを愛していたことは、あの一瞬の慟哭に痛いほど現れてた。
きっとエドガーの出現が、ハロルドも変えてくれる日が来るのではないか、という希望も少し感じられた気がする。

三度の観劇のなかでも、時間を追って演技の成熟が感じられて、東京千秋楽の27日には最初にはなかった間合いや息遣いの中に、登場人物たちそのものの迷いや痛みやかなしみが感じられた。まさに、キャンベル氏の描こうとした「シャーマンである演技者=芸術家」の姿がそこにあった。

人の心を一瞬で理解し、人を癒し結びつける生来の善意と、類い稀な才能ととてつもない知能を兼ね備え、striking young man, handsome in an unusual wayと脚本に指定されたテレンスをまさにそのままに見事に演じた岡田将生さん、儚げで陰鬱な前半と、晴れやかで強い決意を秘めた本来のエリザベスを演じ分けた木村多江さん、厳格で独善的な中にも秘めた恐怖や奥底の暖かさまでを感じさせた益岡徹さん…みなさん本当に見事な演技で、ブラッケン・ムーアの世界を銀座の劇場に出現させてくれました。

あとで届いた原作を読むと、本ではハロルドとベイリーさんの二人を演じる役者が、衣装の最終調整をしている場面から始まることになっている。そこで一旦暗転して、子どもの声が両親を呼ぶ。
つまり、劇中のテレンスだけでなく、この芝居を演じる役者たち全員が、わたしたちそれぞれの背負っている苦しみを少しでも軽くしたり、別の見方を提供してくれる芸術家でありシャーマンだったのだ。

なんて重層的なお芝居だったんだろう!

なんて、舞台芸術って素晴らしいものなんだろう!

と、思わせてくれた作品。
制作に関わったみなさんに、お礼が言いたい気分です。