画像: http://goodfilmguide.co.uk/lobster-the-new-trailer-poster-and-images/
”思いが通じ合う相手と出会って共に人生を過ごすのは、なによりも幸 福なことだ”
この一見罪のない決めつけは、「そうなれない」人間にとっては残酷なものになりうる。
幸福の輝きが強ければ強いほど、「そうなれた」人間と「そうなれない」人間とを隔てる壁も高くなり、落とす影も、また濃くなる。
パートナーがいない人間は、その影の中で、おかしい、劣っている、普通ではない、 と非難されているかのようなプレッシャーや劣等感に悩まされる。
その現代社会にも普遍的に存在するプレッシャーを、 極端に高めてディストピア化して見せたのが、この『ロブスター』かもしれない。
この世界では、相手を見つけられない男女は動物に変えられてしまう。いったんカップルになった後も、決して気は抜けない。妥協の果ての 仮面夫婦も形式だけの同居も認められないからだ。 本当に気持ちの通じあうカップルなのかを、 じっくりと他者に監視される。配偶者に愛想を尽かされたデイヴィッドは、その時点で離縁され、独身者となり、「影の人間」の仲間入りだ。
独身者は矯正施設に集められ、 45日以内に施設内でパートナーを見つけなければならない。見つけられないと動物に変えら れてしまうため、入所者は必死で相手を探す。
森で「独身者」を狩ってくると、期限が1人につき1日延びる。
欠点に「sym(共に)・ pathy(感じる)=共感」を持ち共有すべく、共通点を演出してまでカップルになろうとする入所者た ち。
主人公デイヴィッドは、心がないふりをして「心のない女」 とカップルになろうとするが、すでに犬に変えられて同居していた兄を女に惨殺され、 たまらず女を殺害して施設を抜け出す。
デイヴィッドは森に逃れるが、 そこは他者との深い結びつきを忌み嫌い、 独り身を守ろうとする不自然な規律が支配するもう一つの「極端な」社会。 こんどは自分達が狩っていた集団の一員になるのである。
独身者を厳しく統率するリーダーの女も、親には「普通」 の人間としてパートナーがいると装う、哀れな嘘つきである。
結末は示されない。
彼は盲目になったのだろうか。愛のために、自分の目を刺すことができたのだろうか。それは本当にこれからの二人の愛や絆を約束するものなのだろうか。
女はひっそりと、見えない世界で男を待ち続けている。
わずらわしい世間体に自分を合わせるのをやめ、動物になった方がはるかに安らかに生きられそうなのに、ましてロブスターはほぼ永遠に生きるとまで言われているのに、そう覚悟を決めることの、なんと難しいこと。
私たちはなぜ、愚かなことと一方では思いつつ、世間体や常識に自分を同調させようと頑張るのだろう。
この作品の世界では価値観の差が極端に高めて呈示され、パートナーがいない肩身の狭さや劣等感が、罰すべき犯罪、矯正が必要な病気のように扱われるので、全編を通じて息苦しさを感じる。それでも、ありえない話、寓話と切って捨てることができない。現実も、見方によっては似たようなものだから。
しかし、「恥ずべき」独り身の立場から逃れようとあがく人々が作品中で取る行動は、さすがにつよい違和感を感じさせる。
解決方法だけは、これではないだろう、と思えるのだ。
それは彼らの行動がすべてあるべき道すじとは順序が逆になっていることから来るものかもしれない。
ひとは、「ふと」「いやおうなく」だれかと出会うのであり、慣れ親しむうちにささやかな欠点を愛おしく思い、その欠点は君だけのものじゃない、実は僕もそうなんだ、と認め告白し共有するのが、「恋」の正体かもしれないのに、『ロブスター』の世界ではまずは相手のいる「状態」になることを目標とするところから始まっている。人が目的ではない、監視者=世間に提示するステイタスこそが目的なのだ。そのために必死で「つけ込むべき欠点」のある人間を探し、共有する演出をしてまでそのステイタスに届こうとする。
あべこべなのだ。
いや、ひょっとしてこれも現実をなぞっているだけかな。
恋をしなければならない、恋する相手を持たなければならないという強迫観念にかられる世界はかくも残酷で滑稽で息が詰まる。
真実を見極めることをやめた人々は、やがて視力を失うしかない。
目の前の相手だけを見る「近視」でしか、 人は正しく恋に落ちることができないのだが、視力の調節もまた、至難の業なのだろう。