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表参道の駅からすぐだけど、1本だけ裏手に回った不慣れな場所に、こんな隠れ家のようなスペースがあったとは。
本業はジュエリー屋さんらしいメディアトールさんというお店の地下に、「本の場所」と名づけられた空間があって、3月15日の夜は作家、川上未映子さんの「朗読会」があった。
広いとは言えない空間いっぱいに木の座面とスチールの足だけでできた背の低い小さい椅子が30個ほど並べられ、そこにぎっしりと集まった20代から50代ほどの男女(男性は3分の1はいたと思う)は、開始時間が迫ってくると誰ももうあまり話もしなくなり、しんと静まり返って未映子さんを待っていた。
そこに第一声「うわ、なにこれ、こんなにぎっしりなの?先におトイレ貸していただけますか?」という元気なハイトーンの声とともに未映子さんがやってきて、ほんとにトイレに行ってしまい、最初から皆さんかんぜんにペースに飲まれてしまった感じ。
淡い色調の幾何学模様に見えて実は不思議の国のアリスが連なったガーリーな半袖ワンピースに、さすがの発色、完璧なフォルムのジミー・チュウの真紅のハイヒールを履いて登壇した未映子さんは、みんななにしにきたの?朗読が聴きたいの?朗読ってさあ、面白い?などと挑戦的ともとれるせりふをぽんぽんとおきゃんに飛ばしつつ、それでも最新作『あこがれ』から3場面の朗読を挟んで、詩と小説のこと、育児のこと、どこから小説を書き始めるのか、「ですます」調の話、将来の作品の計画、最近の「ぬるい」小説の話、だからこそ、「文体練習」をしてアスリートのように書く力を鍛える話、などなどを圧倒的な熱量で語り続けてくれた。
なにが言いたいかというと、つまりあれです。
「だから会いたいときに、会いたい人がいてさ、会えるんだったら、ぜったい会っておいたほうがいいとおもうんだよね」
…『あこがれ』(新潮社)・川上未映子
ほんとでした。会っておいて、よかった。
わたしはもともと川上未映子さんのことは「アイドルの追っかけのように」好きで、と言いながらいままではサイン会とか朗読会とかの機会を逃し続け、それは半分「こ、こんなばあさんが会いに行くのは恥ずかしい」というようないつもの自意識過剰に端を発する「自称日和見適応障害」と、あと半分は定員いっぱいになりましたとか気づいたら終わっていたとか、単純にチャンスに疎いからだったけれど、今回は適応障害の緩和と、たまたま(やっと)イベントに早く気がつくことができたので、やっと初の対面(一方的な)ができたのだった。
この日は会場の密度に負けないくらい興味深い話がぎっしりみっしりだったので、一晩経つと記憶のひだに埋もれて今思い出せないこともたくさんあるけれど、Pensieveよろしく思いつくままに書き並べると―
印象的だったのは、研ぎ澄まされた言葉で詩を書くひとだから、小説ももっと感覚的に書かれるタイプの方かと思っていたけれど、「まずこれを書きたいというイマージュがある」というのは予想通りだった半面、たとえば『愛の夢とか』という短編集では、全体をリストの『愛の夢』の曲の構成になぞらえて書いたとか、子どもを主人公にすることで子どもの「行動の理由が自分で分かっていない」という無垢な視点を得ることができるから、書き手には理由がわかったまま、理由を知らずに走る子どもを書くということができるとか、「です・ます」調は先生の言葉でもありおとぎ話のことばでもあるから、本来的に「教え諭す」トーンが入っていて、書き手もいいことを書いた気になりやすいし、上手そうにも見えてちょっとずるい文体だとか、失礼かもしれないけれど本当に深く重層的に構造や効果に至るまでを考え抜かれて書かれているのだなあ、ということが確認できたこと。
また、詩も小説も書かれるけれど、どのように書き分けているのか(だったかな)という質問に対しては、最終的には詩が残ってほしい、さいごには作者の名前も消えてしまっても、言葉(詩)がそこに残るようであればいいなあ、と思って書いている、とのことだった。
「小説は人に対して書くものだけれども、詩というのは言葉の神様に向かって書いているようなところがある。詩、言葉というものは『はじめに言葉があった』と言われるように、やはり祈りのような部分があるから」と。
(なのでここで頭の中に『詩人の魂』が流れましたね。
Longtemps,
longtemps, longtemps
Apres que les poetes ont disparu
Leurs chansons courent encore dans les
rues…)
そして、内容はここに書けないけれど、最初の軽口のなかで一瞬口走った「最近の小説なんて「ぬるい」よねなんて話でもどう?」という一言を聞き逃さず(あれ?「ゆるい」だったかな?)、「何気ない一言に案外本音が宿るものだけど、どういうふうに『ぬるい』の?」という豊崎由美さんの問いに対する答えは鋭すぎて当の小説家さんたちが聞いたらざっくり斬られてぱっくり傷口が開くのではと思えたほど。こういう発言を引き出す豊崎さんもさすがだし、小説家は世間の流れ、浮世とは離れて芸術、文学としてストーリーを書いていればいいという考え方があるとしたらそれとはかんぜんに対極的な、いま、2016年がしっかり見えていなかったら、小説を書く意味がないという強い姿勢に感服した。
アスリートは実力が衰えてくると戦力外通告を受け、去っていくけれど、小説家にはそれがない。誰も何も言ってくれない、止めてくれないから、書き続けようと思えば誰でもいつまででも書くことはできる。でも、だからこそ自分を律していかなければ。アスリートほどストイックにやれているかどうかわからない、まだまだだと思うけれど、下手なままでいるわけにはいかないと思うから、筋トレをするように毎晩寝る前に同じ部屋の異なる描写をし続けるというような「文体練習」を3年ほど続けてきた、という話も大変興味深かった。
(これについては終了後、「一つの話を99の言い回しで書く」というレーモン・クノー『文体練習』を参加者の方に勧めていらっしゃったのを横から拝聴)
将来これを書こうと思っているものは?という質問の中では『ヘブン』の続編は書くと決まっているし、コジマのその後の話だからやはり宗教の話になります、とおっしゃっていたのですごく楽しみ。
それだけでなく、どういう姿勢で、小説や詩と向き合っていて、どのように書き残して行こうとしているか、一端に触れることができたので、未映子さんの今後の著作はすべて今まで以上に楽しみになりすぎ。
最初に席につかれてから、途中、「ぬるい」小説の話をする際に「もう私、正座していいですか」とジミー・チュウを脱ぎ捨てて椅子に正座された時も、未映子さんの椅子の上には座布団とひざ掛けがあったのだけど、ひざ掛けの存在は最後まで無視された。
ひざ掛け掛けようなんていうばあさんくさい発想自体がまだないのね、と照明できらきら光る大きい目で会場をまっすぐ見渡す未映子さんを頼もしく拝見した夜でした。