Monday, October 26, 2015

同班同學 (Lazy Hazy Crazy) 2015



画像: http://www.singpao.com/yl/mx/201509/t20150922_572782.html

24日、東京国際映画祭で香港映画『レイジーヘイジークレイジー』を見た。これがワールドプレミアとのことで、上映後にQ&Aセッションに登壇した主演の女優3人はとても感激している様子。初々しくはしゃいで話す様子がとても可愛らしかった。
これが監督デビュー作というジョディ・ルク監督のインタビューはとても興味深く、特に次のように語った部分が強く印象に残った(記憶を頼りに書いた大意だが)。

「3人の女優には、まず自分の体をあるがままに受け入れようという話をしました。これは作品の大きなテーマです。作品の最後に、少女たちが海辺で裸で花火をするシーンがありましたが、あれはどうしても譲れない、ぜひ入れたかったシーンでした。というのも、女性が裸でいる=濡れ場、というイメージを持たれがちですが、なにも女性の裸は濡れ場だけのものではありません。濡れ場ではない裸のシーン、これをどうしても入れたかったのです」

つまり監督は、女性の身体は性の対象としてだけあるものではない、女性たちの身体は女性たち自身のもの、と言いたかったのではないか、と自分なりに解釈しながら聞いた。

主人公たちは背が低かったり胸が豊かではなかったりする(少なくとも本人たちはそう思っている)が、それは「男性の都合では」または「観賞用には」「劣っている」かもしれないが、機能的になんら不自由があるわけでもなく、それどころかのびやかでみずみずしく美しい、若い身体だ。
作品には、少女たちがまるでその肉体を惜しげもなく無駄遣いするように売春を繰り返す大胆なシーンが数多く含まれるが、制服や普段着に戻ってしまうと相変わらず愛らしく屈託なく見える。

そもそも、少女たちは売春によって「汚れてしまう」のだろうか。損なわれてしまうのだろうか。
3人のひとり、トレイシーはたしかに「場慣れ」の結果初恋の男子に去られるという大きな代償を払うことになるけれど、それさえ自分は好きに遊びつつ相手の女の子には清純でいて欲しいという男の子の身勝手からきたものともいえる。

この日は直後にもう1本映画を見て、それは寺山修司の1974年の作品『田園に死す』だったのだけれど、この中には中学生の「ぼく」が村の女、草衣に力づくで犯される場面が出てくる。その後「ぼく」は倒れ伏したまま「もう帰れない」とつぶやくのだけれど、私はこのシーンで少し笑ってしまったのだ。でも考えてみればなぜ笑うのか。これが少女なら「ああ痛ましい、たしかにこれは帰れないよね」と思ったはず。少女は性行為によって「傷つく、汚れる」と思うのに、なぜ男性にはそういう感覚を持たないのだろう。ショックや動揺は共通のものとして、なぜ女性には感じる「かけがえのないものの喪失感」のようなものを、男性には感じにくいのだろう。それどころか、「もう帰れない、だなんて。減るもんでもなし、ね」みたいな感覚になってしまうのか。

いや、むしろ、女性だって「減るもんでもない」のではないか。売春を繰り返しても、少女たちの笑顔に曇りはなく、美しさはどこも損なわれない。それは、「自分の選択」だから、かもしれない。
自分を損なっていくものがあるとしたらむしろ「男性に気に入られるためにはどういう体でなければならない」というような世間のものさしや、女性の身体=性のためのもの、といった固定観念、そしてその固定観念に媚びて変質してしまうことの方ではないか。だから、たとえ完全なヌードではなくても、そんな行為をさらしていなくても、「劣情をそそるのが目的のポーズや服装を考え尽くした」AKBは時にいやらしく思え、『同班同學』の女の子たちは汚れてない感じがするのかもしれない。

もちろん、売春はしょせん売春で、「売り物の性行為」でしかないから褒められたものではないと思う。
ラストシーン、「性とは関係のない全裸」で海辺を開放感いっぱいに走る彼女たちの、その屈託のない自由さ。
この自由こそが自分の求めているものだと気づいてくれたら、これを手放したり誰かに売り渡したくないと思ってくれたら、彼女たちは自然にああいう日々とは決別していくのではないか、そうであって欲しいなと思った。