画像:(C)2013 ZERO PICTURES/REALPRODUCTS
http://www.huffingtonpost.jp/2014/11/07/05m-momoko-ando_n_6119392.html
『0.5ミリ』の著者で監督で脚本家である安藤桃子さんはつまり女優安藤サクラさんのお姉さんで、ということは奥田瑛二さんと安藤和津さんのお嬢さんだ。
血、ってあるのかな。なんてすごい才能なんだろう。
と、いまさらこんなことを言っているのがはなはだ失礼で、無知無明を恥じつつ、まだ若いこのひとからどうやってこんな物語が出てきたのだろうと人物像、来歴なんかを興味深く検索してしまったんだけど、発表されているものに限っては、これまでに、この『0.5ミリ』を含む小説を2編と、この作品の映画化作品を含む2作の映画の監督・脚本を担当しているそうだ。
作品数の少なさは、これからこそたくさんの作品に会えるということでもあるかな、と思うだけで、ちょっとその「待つ時間」さえ楽しみだ。
最初に映画を見た。
これは舞台(ロケ地)がたまたま自分の故郷だということと、上映時間が長い(196分)ことで、ちょっと躊躇して劇場では見逃していた。でも、惹きこまれた196分はあっという間だった。
『0.5ミリ』のあらすじとして紹介されているものをネットでざっと読むと、「介護ヘルパーの若い女サワが、派遣先でおじいちゃんの冥途の土産に一晩添い寝してやってほしいと老人の娘に頼まれ、引き受けたところ大事件に巻き込まれて職も住居も失い、わけあり老人を見つけてはおしかけヘルパーとして住み込む生活を始める」というようなもので、キャッチコピーには「ヘルパーvsじいちゃんズ」っていうのもあったりして、ちょっとコメディなのかと思うくらい。感想も、「なんかほっこりしました」みたいな、そこらじゅうの作品に適用できそうな汎用性高すぎる感想しか、あまりみつけられなかった。
でも、これはすごい作品だった。
たしかに、コメディではないけれど可笑しみがあり、あらすじとしても間違っていない。
サワは食と住居を失った後、カラオケの「オール」におしかけた老人を皮切りに、自転車のタイヤをパンクさせたり、本を万引きしたりといった老人たちの「ちょっとした弱み」に蛇のようにがっちり食いつき、怪しまれてもふり払われてもお構いなしでさっさと家に押しかけて住み込む。
サワの特異なところは、こんな厚かましさと全く対照的に、完璧に家事をこなし、完璧な献立を見事な手際で料理し、プロの的確さと献身的な心遣いを持った介護までができるところ。しかも、その美しい所作と、どことなく品のある静かな言葉づかいには人を芯からほっとさせたり、はっとさせたりするものがある。
狭苦しく汚れた老人の住まいを気に掛ける様子もなく、しょぼくれて誰からもうとまれ「老人臭」がするだろう老人たちを、遠ざけるどころか、そっと「添い寝」したりするサワ。それも、若い色気を濃厚にふりまくような添い寝ではなく、うつらうつらと眠りに落ちるきわの老人の布団にそっと滑り込み、朝目覚めるころにはとっくに抜け出して着替えて朝ごはんを作っているという、古き良き日本の妻のような添い寝、だ。
老人たちは、夢のような現のような、ぬくもりの幻だけを淡く記憶するのみだが、昼間はずうずうしいサワに次第に取り込まれていく。
私の築き上げた世界は、過去も現在もそして未来をもすべて彼女に吸収された。と同時に戦争で失ったもの、脳裏に焼き付き離れないあの日の光景、あの世にまでまとわりつくであろう悔恨の想いや、塊となり心を塞いでいた過去も、乾いた高野豆腐が出汁を吸うようにふやけて戻った。
とりわけ印象的なのは、元海軍にいたという教員あがりの老人が、痴呆が進み、サワを「取材に来た人」だと思い込んで語る戦争の記憶の場面だ。
画面には真壁と名乗る老人を演じている津川雅彦さんの顔が大写しになり、カメラは一度も動くことなく、津川さんも一度も視線をそらすことはない。
痴呆症の老人が果てしなく同じことを、今初めて話すようにすべての言葉に100%の情熱をこめて繰り返すあの様子のまま、「戦争くらいばからしいことはないですよ」と独白する。
7分間あったそうだ。
画面を見ている自分も、目をそらせなかった。
ネットの世界では「右翼的発言」があるとかいう話題になることもある津川雅彦さんだけれど、本当に、小説や台本に書かれた文字が起き上がり、乗り移り、津川さんを完ぺきに元海軍の真壁義男さんにした、それだけで、開戦を知りつつ忸怩たる思いで若い兵隊さんを訓練し、アメリカ人だって同じ人間なのに、とも、戦争なんて何のためにやってるのかわからないんだから、とも、決して口にできないまま、「今死ぬか、今死ぬか」という極限を頭と心に焼き付けてふり払えずに生きてきた老人の心情が、あそこまで演じられるのだろうか。
魂が共鳴しなかったら、あのような悔恨、もう二度と戦争なんてないですよ、という願いのこもった断定は、あそこまで表現できないだろう。
浅い人物批判、レッテル貼りなんて、ばからしいものだよね、きっと。
サワは、常識にとらわれずエキセントリックだけれど、そんな歴史がいっぱい詰まった老人たちの硬く乾いた心をふやかし、心を開かず閉じこもっていた若い「マコト」の心を解放し、人に「0.5ミリ」の距離まで寄り添うことで、閉じた岩戸を開くような「魔法」をかけていくようだ。
自分できっかけを作らない限り生涯接点がない人は人生にたくさんいる。彼は私の世界に存在している。そしてもうすぐ私が彼に会いに行く事で、初めて彼の世界に私が存在する事になる。
サワは、人と人が遠ざけあうことでいつのまにか仕組みやバランスがおかしくなってしまった世界を、彼女のしなやかな強引さで、戻しているのかもしれない。
サワがなぜこんなパーソナリティーを獲得していったのか、その悲しい理由も小説には書かれている。
老人たちのエピソードだけでなく、終盤で語られる「マコト」の物語は、映画版とは少し違った美しいエピソードを含んでいて、これはあまりにすてきなので未読の方の楽しみを奪いたくないから書かないけれど(まあ、こんなブログを読んでいる人はほぼいないと思うので、いいっちゃあいいのかもしれないけど)、マコトの「こだわり」、崩壊しそうな自分を強く支えたある「究極の一人遊び」は、サワの「こだわり」とも共鳴している。
サワは、音楽を聞かない人なのだけれど、「音」に強いこだわりを持っている人なのだ。
老人は「死臭がするっていうか、悲しい匂いがします」、臭くないですか、と問うマコトに、サワは、こう答える。
「するね。音もするよ。死にそうな音じゃなくて子供とか若い人のとは違った、それでも生きようとする音。その音が聞こえた時は強烈だよ」
これは、視覚や体感などの感覚に別の感覚、つまり音や匂いが感じられるという「共感覚」に近いものなのかもしれないけれど、老人の「生きようとする音」が聞こえるサワだからこそ、わかるものがあるのかもしれない。
ところで、タイトルの「0.5ミリ」はなんのことだろう。
映画の中では、真壁老人がサワに残したカセットテープ、小説ではおなじく真壁老人の「重要書類」であるノートの書きつけに、こんな一説が出てくる。
…極限に追い込まれた人の輝きは極限状態を凌駕し、自己の実存として覚醒され、それは、山をも動かす事となる。その山とは、一人一人の心、0.5ミリ程度の事かもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである。
また、Wikiでは、「静電気が起こるくらい近い、人と人との距離感が0.5ミリ」と安藤監督本人が語った、ともされている。
どちらも、この作品から感じられる大切な「0.5ミリ」だ。
真壁老人の言葉は、聡明ながら思考が混濁している人特有の難解さが現れているような文章で、本当に言いたいことがなんなのかはわからない。でも、自分一人には山を動かすほどじゅうぶんな力がないことを、いま、人は嘆きすぎるかもしれない。
一人一人は0.5ミリでいいのだ。そのために、この世界には70億もの人間がいて、しかも次から次に人が生まれて、歴史をつなげていくのだ。でも、動かしたい方向へわずかでも山を動かしたいのなら、そんな0.5ミリであることは、けっしてやめてはいけない。覚悟は必要だ。だけれど、大きすぎる覚悟でなくていい。
山の大きさの前にひるんですくんでいる私たちも、大河のような歴史の一瞬、一滴を、0.5ミリを全うすれば十分なのだと思えたら、あきらめずに生きていこうときっと思える。
そして、人との距離を極限まで縮める意味での、0.5ミリ。
老人たちに近づいていくサワには、ただ寝るところやお金がほしいからというだけではない、自分が役に立つ存在になれることへの誇りや満足感、本来的な他者への愛情や尊敬が感じられる。無理やり近寄っているのではなく、サワの近さこそがみんなが取り合うべき距離で、間違った遠さになっている人と人との間隔を、本来あるべき近さに正しているのかもしれないと思うほどだ。
人間は、そういうふうにして前に進む生き物なのだ、ということを教えてくれて、だからもっと自分から、せっかく同じ世界に生きている大切なほかの0.5ミリたちにも近づこうかなと思わせてくれて、見終わるとちょっと気持ちが楽になる、そんな不思議な作品だった。
昨年の映画公開時の安藤桃子さんの、インタビューがとてもすばらしいこの記事も、ぜひご一読を。