画像: weibo.com
その優雅で古典的な言葉遣いからにじむ品のよさ、独特のリズム感、ところどころに垣間見える謙虚な自己反省の姿勢、娘と二人暮らしゆえの、そしてエッセイの多くが書かれた五十代以降という年齢がいやおうなく感じさせる、老いや人生の終わりにむけての、しんとしたさみしい心もち、などからくるものだろうか。なによりも、その飼い犬、飼い猫などに対する深い愛情が、ほほえましく共感できるからだろうか。読んでいるだけで浄化されるような、読書「体験」ができる。
「美文」と言ったが、もちろん文章の巧みさというのは美しい言葉さえ並べればいいというような簡単なものではなくて、幸田さんの文章でまず感じ入るのはその動作や質感、重量など、ふつう文章だけでは表現が難しいと考えられているような部分の的確な描写だ。もう、あまりにも月並みな言い方だけれど、「目に見えるよう」、この身に「重さを感じるよう」なのである。
たとえば、電車の車窓からふと見えた白い子犬が、どこまでもただ歩いていくのに心惹かれて、いつまでも目で追い続けたというある日没ごろのこの光景。
その辺は耕地整理ができていて、道はみなまっすぐ見通しだった。その道の中ほどより近いあたりに、白い小さな犬が生まじめに小急ぎでこちら向きに歩いていた。気がついたらそこにいたのだが、用ありげな歩きかたをしていた。仔犬でも成犬でもなくて、骨格の定まりきらないか弱さが見てとれ、背中の白地に二つ茶斑をつけている。立ち耳のその尖が片びっこに少し垂れ、頸は肩と水平に、肩はきゃしゃ、前肢は関節のところを器用にぴょいぴょいと折り曲げて急ぎ足、後肢は前肢まかせに調子をとり、さすがに若いからおなかは緊っていて牡牝はわからず、短毛のしっぽはあるがままに落としている。犬のすべての部分は前肢の働き一つへ、糸で結びつけてあるといったかたちである。かわいかった。 『群犬』
まだ子犬期を脱したばかりの若い犬特有の、あの頼りない足の運び。そうそう、そういう歩き方するよね!
私の目の前にははっきりスクリーンが出現し、茜色の夕日を浴びてどこまでも歩き続ける、折れた耳に少し幼さを残した白い子犬が映し出される。
あるいは、
猫は香箱のなかで折っていた前肢を立てると、猫板のうえで身を顫わせて伸びをしておいて、ぽとんと畳へ降りた。『こがらし』
という短い一文からは、畳表に触れる肉球、なめらかな毛におおわれたその猫のしなやかな前足の、ひそやかな重みまでを感じる。
擬音語、擬態語のくりかえしや、身振り手振りに逃げたり、それでも間に合わなければ、まあこれを見てよ、と動画を見せて同意を促しておしまいにするようなこともできる昨今、言葉ではとても表現しきれないと最初からあきらめている文章力の貧困な私たちに、いやいや、言葉にはここまでの表現力があるのですよ、と諭されるような気持ち。
こういう文章力、表現力はいったいどこで培われ、習得できるものだろうか。
そのヒントもまた、このエッセイ集の中にふんだんに示されている気がする。とにかく、幸田さんの観察眼はすごいのだ。
飽きることなくいつまでもどこまでもよく見て、身体の特徴、行動の理由、そしてそこに至った気持ちまで観察し尽くすその姿勢は、『類人猿』という作品で、動物の飼育員がその観察眼や積み重ねた経験ゆえに「学問をする人」の気質に匹敵すると述べているように、幸田さん自身もその観察の積み重ねによって、動物たちの毛に覆われた身体の中身までを見透かし、解析し、それでいておいそれと断定しない謙虚さをあわせ持つ「学問の人」になったかのようだ。
「見える」から、「書ける」んだな。
書こうと思ったら、まずは見えるようにならなくては。
見えるようになるためには、とにもかくにも、もっともっと見なくては。
そんなことをあらためて教えられる気がする。
その「観察眼」があるからこそ、幸田さんの目には、身体の表面や目に見える行動を突き抜けて、動物のみならず人間の心の奥までがよく見えるようだ。
(初老の愛猫、クロを)見ていたら、なにか気の衰えを感じさせられ、亡くなった父親などはどんなふうにして、だんだんと気の衰えを噛んで行ったかと思った。『秋のおもい』
という一文の、なんともいえない寂寥。
老いていくのは一人幸田さんの父(いわずと知れた、幸田露伴ですね)ばかりではなく、幸田さん自身も、私たち読者も、人間ひとりのこらずそうなのだし、老いの先には二度と会わなくなる日がやってくる。
犬猫など愛玩動物の多くの寿命は人間よりはるかに短いから、動物と家族のように寄り添って暮らすということは、その家族の死になんども遭遇するということでもある。ほんらい人生にさほど多くは訪れず、それ故に壮絶であるはずの親しい家族との永遠の別れになんども遭遇することは、切ないけれど、どことなく心が鍛えられるようなことかもしれない。と、愛猫家の方々を見るとき、よく思う。
中国語の別れの言葉には「后会有期」(また会う機会がありますよね)という言葉があるそうだけれど、この言葉をもじった『后会無期』(2014年)という不思議な中国映画があった。
邦題は『いつか、また』、英題は"The Continent"。ここで言う"Continent"というのはもちろん、中国“大陸”で、若者たちが故郷の小さな島を脱出して大陸を旅するロードムービーだ。ある者は島に帰り、ある者は二度と帰らない。長い長い旅をともにしてきたのに、殆ど別れの言葉もないまま別れて、本当に、二度と会わない。このことのなんという寂しい後味。
后会無期、邦題とは逆に、もうまた会う機会はないだろうという意味のたった四文字の言葉の寂しさは、若者たちの旅の終点になった砂漠と、そこを吹く風と、振り返りもせずひょうひょうと歩いて行った後姿を思い出させて、ただの旅の別れ以上のものを感じさせる、しみじみ染み入る寂しさだ。
だけれど、わたしはまだ、お互い生きていながら二度とは会えない人と、この世の住人ではなくなって二度と会えなくなった人と、どのようにその別れが違うのか、そのあわいがよくわからないでいる。観察も経験も、足りないということだろう。
さいきん、乱暴な言説や、たったそれだけの意見の相違でそこまで切り捨てたことを言うのか、とあきれるような断定、敵意しか感じない文章、ねたみや嫉妬が背景にあることをうかがわせるねじ曲がった解釈などが氾濫し、そうした言葉や文章に触れるだけで、こちらの心もちまで澱んだりとげとげしたり、暗く汚染されていくような感覚を覚えたりする。
原因はひとくちには言えないのだろうけれど、例えば的外れな批判に対しては、「そうじゃないでしょう、どうしてもう少しよく読まないのか」と感じることがよくある。
まずは、対象をよく見ること、人が思いを込めた文章は、こちらも心してよく読むこと、自分の規範や常識では理解できない行動を見たときは、その裏側をできるだけ考えてみること、など、言い古されていることかもしれないけれど、こういう心構えで臨んでみることでみんなもうすこしは柔らかくなれるし、物事がうまく運ぶのではないかと夢想するのだけれどそれは甘いのだろうか。
でも、よく見てよく考える人の滋味深い文章を読むたびに、いや、甘くなんかないだろう、やはりそこにしか道はないだろう、と思い直してしまうのだ。