画像:https://www.flixist.com/review-paterson-220910.phtml
ニュージャージー州パターソンは、ハドソン川を挟んでマンハッタンからもさして遠くない位置にありながら、慎ましやかな小さな街のようだ。
その街で路線バスの運転手をしている主人公は、街と同じパターソンという名で、美しいガールフレンドのローラと、イングリッシュブルドッグのマーヴィンと暮らしている。
彼は、あらゆる小説や映画に登場する青年の中でも、きっと一、二を争うほど「感じのいい」青年だ。
しかも、詩を書く。
この映画は、彼のとある月曜日の朝から、次の月曜日の朝までの話で、いわば「映画で書いた詩」のようだ。きっと、繰り返し読み返すように、見たくなる。
詩とは、なんなのだろう。
風の中に消えてしまいそうな、か細いつぶやきも、取扱説明書の一行のような味気ない言葉も、舌の上で繰り返し転がしてみると、繰り返される(patternの)うちにぼんやりと違う形を持ち、リズムを持ち、やがて心のひだに隠れていた思いがけない感情を描き出す触媒になることもある。
毎日同じように繰り返す「日々」そのものも、こうして詩になっていったら、いいね、きっと・・・。
"Love Poem"と題された彼の詩は、朝食のテーブルに置かれたオハイオ・ブルーチップの青いマッチ箱の描写から始まる。
どこにでもあるマッチ箱の中に行儀よく並んだなんでもないマッチ。些細な日常の描写から、やがて詩は、しゅっと音を立てて体の倍ほどの炎を作るマッチのように、突然熱を帯び、羽を得て飛び立たんばかりに高らかに愛を語る。
静かで清浄な日常の中に、慎ましやかに畳み込まれている狂おしいほどの愛情。穏やかな彼の中にあるそんな熱情は、しかし、詩の中にしか示されない。
映画の中ではほとんど事件は起こらない。
せいぜいバスが少し故障して、詩を書き溜めた「秘密のノート」が愛犬マーヴィンのかわいい嫉妬でビリビリにされてしまったくらいだ(まあこれはショックといえばショックだよね)。
モノクロのカップケーキを山のように焼き、家中のファブリックに直接ペンキを塗って模様替えするひたすらキュートなガールフレンドはあくまでも優しく思いやりがあるし、1日の締めくくりに立ち寄るお気に入りのバーがある。What more can you
ask?
にもかかわらず。
彼のこんなにも平和な淡々とした日々と、大切に胸にしまいこまれた愛情は、なぜかどちらも穏やかならざるものを内包しているように思えてくるのだ。
愛する人と体を寄せて眠る快適な温かさが伝わるような冒頭の場面から、ほどなくしてカメラが、体に似合わない小さなブリキ缶のお弁当箱を下げてバス会社に向かう彼の大きな背中を追うとき、すでに思いがけない恐怖が足元から駆け上がってくるようでわたしは思わずすくんでしまった。
そんな場面に似つかわしいのは、軽快で明るいメロディーやリズムのはずなのに、なんということか、彼の通勤路に流れるのは死や悲劇を予感させるような美しくもの哀しい短調だったのだ。
だから、こんな微笑ましく素朴な善男善女の一週間の話を、わたしは実は最後まで息を詰めるような思いで見た。
まさかこんな幸福な日常のどこかが崩れ落ちて、真っ逆さまに落ちませんようにと。
パターソンの、命の強度を疑うことなく生きている人間にしては優しすぎる行動や言葉のすべてが、そのたびに不安を掻きたてたのだ。
物語は、そのつきまとった「悪い予感」の正体を明かしてはくれない。単なる思い過ごしか、それともひっそりと種明かしが忍び込ませてあったのか。
2度ほど、さりげなく映る軍服姿のパターソンの写真は、胸にたくさんの勲章をつけている。バーで一瞬見せた身のこなしも、軍隊経験から来るものだったかもしれない。でも、よくある「軍生活のトラウマ」が彼に何かの作用をもたらしたのかどうかは、語られない。
あんなに仲のいい二人が、連れ立って出かけることはまれで、たいてい単独行動をしているのも、ごく普通のカップルにしては少し奇妙かもしれない。でも、その習慣についても、何も語られない。
試や詩人に詳しく、教養のある青年が、路線バスの運転手をしているのも、少し似つかわしくない。でも、その理由も説明されない。
詩作のノートを失った彼は、そのことに落ち込んでいるというよりはさらにずっと根源的な悩みに沈むような表情で、散歩道の滝のそばに座る。
するとここに表れるのが永瀬正敏演じる日本人の詩人で、彼は微妙にへんてこな言い回しの英語と、なんの脈略もないようでいて実はパターソンの悩みの一点を突いたかもしれない言葉で、彼の沈うつな気分をうまくからげて持って行ってしまったようだ。
―パターソンのバスの運転手!それは詩的ですね。ウィリアム・カルロス・ウィリアムスの詩にありそうです・・・。
あるいは、特になんの背景も事件も、なかったのかもしれない。
彼はただ、詩が日常を蒸留して純粋な水を精製するように、生にまつわる哀しみのようなものを、見えるようにしてくれただけなのかもしれない。
すべての生には終わりがあって、生きている間に得た愛情も作り出したものも、すべてやがて消えてしまうという哀しみ・・・。
それでも、たどり着いた今の自分から、始めるしかない。
ニュージャージー州パターソンで路線バスの運転手をしている自分。街と同じパターソンという名で、美しいガールフレンドのローラと、イングリッシュブルドッグのマーヴィンと暮らしている。そして、詩を書く。
そんなふうに。